中国を知る③ 中国の苦難(1)アヘン戦争から辛亥革命まで

前回の記事「中国を知る②中国の国際関係」では絶対的な技術力、文化力に裏打ちされた中華思想に基づく、中国の国際関係を見てきました。中国は皇帝が世界の支配者であると考え、中心(中国)から遠くなればなるほど、野蛮な民族が住む地域あると考えます。

中国の「冊封体制」は、こうした周辺国のリーダーが皇帝(親分)に頭を下げ、中国の子分として従属することで成り立っているシステムです。中国の周辺国は中国文化を学ぶため使節団を送り、自分の地域で生産した貢物(お土産)を持って中国を訪れました。中国はその何倍ものお返し(返礼)をして使節団を自分の国に帰します。

こうした中国皇帝のプライドを見せびらかす貿易を「朝貢貿易」と呼びました。

しかし、この中国の自信とプライドをズタズタに崩壊させる事態が起きます。1840年のアヘン戦争です。アヘン戦争における中国の敗戦がきっかけとなり、ヨーロッパ列強が進出して中国を反植民地化していきました。では、なぜイギリスは距離の遠い中国にそもそも戦争をしかけたのか。今回はその理由から考えていきたいと思います。

1.産業革命は紅茶を欲した

19世紀、産業革命を実現させたイギリス人は茶を求めるようになります。その理由は、産業革命による労働環境と都市の変化にあります。産業革命により、機械が発明されて仕事を失った多くの農民が、職を求めて都市に流れ込み工場などで働き始めます。

イギリス各地には大規模な工業都市が生まれました。ロンドンやマンチェスター、リヴァプールなどサッカークラブでも有名な都市が当てはまります。工場で働く労働者の仕事内容は単調で長時間です。

そこで工場の経営者は、集中力を高めて眠気も覚ます効能があるカフェインが入っている紅茶を飲ませるようになりました。こういった背景から、もともと紅茶は上流階級の飲み物でしたが庶民にも広く流通するようになりました。

また中心都市であるロンドンは、工場から石炭を燃やした煙が放たれ、町中を覆ったため「霧の都」と呼ばれました。過剰な人口増加と急激な工業都市の拡大により、上下水道の整備が間に合わず、都市の衛生環境はひどいものでした。

ロンドン市民はテムズ川に生活排水や汚物をそのまま流していました。しかし市民はその川の水を使って洗濯や炊事を行い、飲料水としても使っていました。もちろん沸騰させて消毒をしますが、色と臭いは消えません。こうした色や臭いをごまかすために紅茶は用いられるようになりました。

2.「冊法体制」と「主権国家体制」

イギリス国内で紅茶の需要が高まる中、イギリスは植民地であるインドで紅茶の生産をさせますが、しかしその需要をインドの生産だけではまかないきれません。当時、お茶のほとんどは中国で作られていたためイギリスは中国との貿易を始めようとします。

大量のお茶を求めるイギリスは中国に使節を送り込みますがここで問題が起きます。

中国とイギリスでは国際関係の考え方、それに基づく貿易の在り方が全く異なります。前回の記事で確認したように中国の貿易は、中国は世界の中心と考える「冊法体制」に基づく「朝貢貿易」です。対等な国際関係を原則とする「主権国家体制」のイギリスには理解できるはずもありません。中国は皇帝の臣下(子分)になることをイギリスに要求します。

イギリスに無礼(?)を働いた中国は、1840年のアヘン戦争で叩きのめされます。

鉄製の蒸気船を浮かべるイギリスと木造の帆船であるジャンク船との戦力差は歴然でした。産業革命に成功し、近代化を遂げたイギリスにすでに全盛期を過ぎた大国の中国(清)は全く歯が立ちませんでした。

アヘン戦争後もイギリスの中国進出は続きます。産業革命によって工場で大量生産された商品がイギリス国内だけでは消費されないため、イギリス国内で余った商品を販売する新たなビジネスマーケット(市場)を求める声がイギリスでは上がっていました。

こういった考え方を「自由主義」経済と言います。「神の見えざる手」で有名なアダム・スミスが主張し、現在のグローバリゼーションを支える理論的根拠になっています。

3.中国は新しいビジネスマーケット

ヨーロッパの国々にとってアジアの国々は未知の国でした。しかしアヘン戦争によって中国の弱体化が露呈され、人口の多い中国は新たな市場としてヨーロッパ各国から注目されました。

そこでイギリスはフランスにも声をかけて第二次アヘン戦争と呼ばれるアロー戦争(1856年~1860年)を起こします。勝利したイギリスとフランスは講和条約である天津条約(1857年)、さらなる要求を含んだ北京条約(1860年)により、中国でのビジネスをさらに加速させます。

中国から利権を獲得したイギリスは、11か所の港を追加した合計16の港を開講させ、自由に貿易ができるようになりました。南下政策を進めていたロシア帝国(「南下政策については「日露戦争の奇跡とは?」をご覧ください)も、このアロー戦争に便乗して中国に進出してきました。

4.宗教が国家を滅ぼす

中国の半植民地の歴史はアヘン戦争の敗北から始まりました。これ以降、列強による中国の半植民地が進められ、列強は自国で生産した工業製品を中国に輸出するだけにとどまらず「資本の輸出」をすることにまで及びました。「資本投下」とも言います。

「資本の輸出(資本投下)」の目的は大きく分けて二つあります。

一つ目は鉄道を敷くことです。発電などのエネルギー源である石炭などの原料を確保し、その原料を自国まで運ぶために鉄道を建設します。その鉄道は中国内陸部から港に繋がり、中国の港からイギリスなど列強の国々に運ばれることになります。

二つ目は中国国内に工場を作ることです。人件費の安い中国人に商品を作らせ、その商品をイギリス国内で安く販売するためです。現在においても、私たちの使う工業製品や衣服は海外で生産され日本に持ち込まれています。どこよりも安く商品を販売するためです。

こうした目的のために、フランス・ドイツ・ロシアなどの列強諸国は鉱山採掘や鉄道の敷設、工場の建設を進めていきました。中国には、外国からの外国製品が流入し、また外国資本による鉄道の敷設や工場が建設されたされた結果、中国人は低賃金で働かされ、また失業者も増加しました。

19世紀末、中国の民衆の多くは絶望の淵にありました。絶望が蔓延する社会の中で、未来に希望の持てない人々がすがるのが、いつの時代でもどの地域でも「宗教」です。

この時代の中国の境遇は古代ローマ帝国の置かれた状況に似ています。3~4世紀のローマ帝国において、急速に支持を拡大していったのが「キリスト教」でした。

世界史の法則の一つとして、人は絶望に追い込まれると妄想に救いを求めるため、国家が崩壊過程にあるときは新興宗教が跋扈することが多く、それが原因で国が滅んでしまう可能性があります。長きにわたって栄光を築いてきた古代ローマ帝国の滅亡も宗教(キリスト教)の蔓延が原因でした。

5.キリスト教がローマ帝国を滅ぼした

宗教は、その社会が長く共有してきた伝統的な価値観を破壊していきます。

キリスト教の蔓延によってローマ帝国においても、ローマ建国当時から続いた古き佳き体制や制度、伝統が次々と崩壊していきました。「深刻な格差の拡大」や「内乱の一世紀」など数々の困難に直面し、共和政から帝政へとその姿を変えながらも、ローマが辛くも延命することができたのは、深い部分で「ローマの精神」という伝統が社会で共有されていたためです。

伝統の共有が社会にとって重要であることは日本の歴史で考えると、分かりやすいと思います。日本は過去から現在に至るまで、天皇を頂点とする共同体国家という形式を長く維持しています。

天皇による専制国家から、武士が幕府によって支配権を握る武家時代を経て、明治維新による近代国家、そして敗戦による日本国憲法制定による国民国家と、その時代に合わせて何度もその姿を変えてきました。

しかし日本人が「私は日本人だ」というアイデンティティを確保する場所を保つことができたのは「天皇」が存在するという、国家の根幹部分は揺るがなかったからです。天皇制との相性が悪いキリスト教を徳川家康が徹底的に弾圧したのもこれが理由です。

ローマ人が、日本のようにアイデンティティを得る場所は、建国から続く伝統的なローマ人としての精神でした。またキリスト教は一神教であり、一神教の宗教は他者に対して排他的になる傾向があります。

多様性を尊重するローマの精神との相性は最悪でした。キリスト教が蔓延することは、同時にローマを否定することになり、共同体としての一体感を失ったローマ帝国は以降、収拾がつかない混乱に突入します。「軍人皇帝時代」です。

そして313年、当時の皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認し、392年にテオドシウスがキリスト教を国教からしてから3年後、ローマ帝国は東西に分裂(395年)。そして476年に西ローマ帝国は滅亡しました。ローマ帝国がキリスト教を認めてから、わずか160年余りです。

6.中国の崩壊も宗教が原因

再び中国に話を戻しましょう。19世紀末、列強の植民地支配によって、中国の民衆の多くは失意の底にある中、中国もローマ帝国と同じく新興宗教が支持を拡大していきます。

「義和団」です。義和団は植民地支配による失業などによって湧き上がった中国民衆のストレスをうまく吸収し、1900年に義和団事件を起こしました。義和団事件とは中国にいる外国人を排除しようとする攘夷運動です。日本の幕末でも、薩摩藩や長州藩などが尊王攘夷を展開しました。

義和団のスローガンは「扶清滅洋(ふしんめつよう)」。これは「清朝を扶(たす)けて外国勢力を駆逐する」という意味です。清朝もこの義和団に便乗して列強の駆逐を目論みましたが、列強は日本やロシアを中心とする八か国が共同出兵を行って鎮圧に成功。

講和条約である北京議定書(1900年)によって、中国の半植民地化が決定的になりました。

義和団事件から12年後に、キリスト教徒である孫文が「辛亥革命(1911年)」を成功させ、共和政である「中華民国」を建国。秦の建国から清まで約2000年以上続いた中国の伝統であった皇帝制が崩壊しました。このように考えると、中国の伝統が崩壊した原因もローマ帝国と同様に宗教だということになります。

7.辛亥革命後の中国

今回の記事ではアヘン戦争から辛亥革命までを見てきました。アヘン戦争からアロー戦争によって、中国が列強によって食い物にされ、絶望に陥った中国の民衆の間で義和団という宗教が流行し、結果的に清は崩壊。辛亥革命によって中華民国が誕生しました。

しかしその後の中国も苦難の時代を迎えます。満州事変(1931年)や日中戦争(1937年)によって、今度は日本の侵略を受けることになります。今回は話が長くなってしまったので、次回はこの時代の日本の侵略に触れて、引き続き中国が経験した苦難について考えていきたいと思います。

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