若鷹軍団Hawksの軌跡~監督王貞治の苦悩と頑張り
福岡やパリーグからの期待
王監督の登場により福岡の街は盛り上がりました。
この私も、子供の頃からのファンである王さんが福岡に来たという事で、巨人の事は忘れてすっかりホークスファンになっていたのです。私が巨人ファンだったのは王さんがいたからで、王さんをクビにした巨人には少し嫌気がさしていたのです。
パリーグの他のチームも王監督の登場を歓迎しました。オリックスの監督で北九州出身だった仰木彬は「パリーグに来たことに意味がある」とパリーグの繁栄に繋がるのを期待していました。
耐え忍んだ三年間
王監督の初陣である1995年のシーズンは、4月には首位に立ったり、小久保選手が本塁打王を取ったり、工藤投手や小久保、秋山の3選手がゴールデングラブ賞を受賞したりしましたが、チームとしては54勝72敗で5位と終わりました。
オフには現NHKの野球解説者である武田一浩投手をトレードで獲得し、ドラフトでは将来の大エースである斉藤和巳を一位指名するなど、常勝軍団への準備は着々と進めてはいました。
しかしチームの成績は上がらず、1996年は最下位、1997年は5位と、長年の間に染み付いた負け犬根性はなかなか改善されず、低迷した状態は続きました。
そんな球団に、ファンの一部が王監督や球団社長を痛烈に批判する横断幕を掲げたり、1996年には、王監督や選手が乗るバスに向かって生卵が投げられる事件が発生しました。
そのオフに、私はある企業のゴルフのコンペに参加しました。その時に名球会の方々がゲストとして来ていましたが、そこにサンデーモーニングの喝のコーナーでお馴染みの、張本勲氏もいました。
その席で張本氏が生タマゴ事件を取り上げ、「どうしてファンがそんな事をするのか、そんな事をするのは本当のファンでは無い」と怒っていました。そして王監督と会った時に、「もう東京に返ってこい」と言ったそうです。
しかし、王監督は「負け犬根性を何とかしないといけない」と、それには「とにかく勝つしかない、勝って優勝する事の喜びを選手たちに味あわせてやりたい、一度経験すれば選手たちも変われる」と頑張りました。
選手の補強も着々と進み、1996年のドラフトでは青山学院大から井口忠仁、新日鉄君津から松中信彦、九州共立大から柴原洋らの、将来ホークスを支える中軸打者たちを獲得しました。
特に青山学院大の井口忠仁は、大学の先輩である小久保とまた一緒に野球がしたいとホークスを逆指名して入団して来ました。また新日鉄君津の松中信彦は井口に続く2位指名でしたが、彼もまたホークスを逆指名して入団しました。