大学の起源とは?

2月に入り、本格的な受験シーズンに入りました。

受験生にとっては大事な時期です。どの大学に合格するのかによって、生徒の人生も大きく変わってしまう可能性があります。偏差値の低い大学に入り卒業しても、給料の高い大企業などに就職できる可能性は低いためです。

就職活動の際、「学歴フィルター」と呼ばれるものの存在が明らかになり、物議を呼びました。学生は就職活動をするとき、就職情報サイトに登録し、情報収集をします。その際、就職情報サイトには自分の学歴を入力しなくてはいけません。偏差値の低い大学の学生がある会社の説明会に予約しようとしましたが、「満席」で予約できませんでした。しかし隣にいた偏差値の高い国立大学に行く友達は予約することができました。企業は密かに学歴で学生を選別しています。高い学費を払っても、それに見合うほどの見返りを得ることができない。これが偏差値の低い大学に通う学生たちの現実です。

1.現代における大学の意味

私は教育関係の仕事をしているため、来年に受験など進路の決定を控えている生徒や保護者から「大学に行くべきかどうか」という質問をよく受けます。この時によく使うたとえ話があるので少し紹介させてください。

私は「学歴」の意味を「車(大卒)」と「自転車(高卒)」に例えて説明します。車を持つことができれば、移動範囲は広がり、様々な目的に行くことができます。大卒を車に例えれば、移動範囲の広がりは「職業の選択肢」が増えることを意味します。様々な目的地は「給料の高い仕事」に就く可能性が高くなることを意味します。

一方の高卒は車ではなく、自動車に乗ることになります。自動車は、移動範囲は狭くなり、目的地も限られます。そのため、高卒は職業の選択肢は限定され、給料の高い仕事に就く可能性は低くなります。また大卒といっても卒業した大学によって持てる車の車種は異なります。偏差値の高い大学を卒業すれば、高級外車に乗れます。逆に偏差値が低ければ、軽自動車になります。良い車に乗れれば、さらに移動範囲が広がり、様々な目的に行けるわけですから、人生のオプション(選択肢)も増えることになります。

良くも悪くも日本は学歴社会です。企業の採用試験にはたくさんの学生が応募してきます。企業は基本的に、学歴で判断し採用します。日本社会において、学歴とは「これまでの人生でどれだけ努力をしてきたのか」という基準として機能しているためです。

また企業の人事部は、同じ能力の学生が2人がいて、どちらを採用するか迷ったときは学歴の高い学生を選択します。採用した学生が会社を辞めた場合、他の社員は「あの偏差値の高い大学の学生ならしょうがないか」と考えますが、逆に偏差値の低い学生が辞めたら「なんであんな大学の奴を雇ったんだよ」という不満が出てしまいます。人事部は学生が辞めた時のリスクも考えて、採用しているのです。

そのため結論としては、将来の職業がはっきり定まっておらず、金銭面など大学に行ける環境があるならば、勉強をしてなるべく偏差値の高い大学に行くことをおすすめする。このようにアドバイスをさせて頂いています。

2.そもそも大学になぜ行くのか?

こういう説明を生徒や保護者の方にしているのですが、そういう自分が少し嫌になるときがあります。多くの学生や保護者は、将来の就職に有利であるとか、高い給料の仕事に就くことができるなどの理由で進学を希望します。しかしそもそも大学とは何かを深く勉強したいために行くところではないか、と生徒や保護者に問いかけたい時があります。

前回の記事「義務教育の起源とブラック企業」で述べさせて頂いたように、大学のパンフレットには就職実績が掲載され、大学の優劣を決める基準ともなっています。今の大学は企業の出先機関になっており、本来の大学の意味を見失っています。日本では教育はビジネスになってしまっているのです。

前置きが長くなってしまいました。そこで今回はヨーロッパの「大学の歴史」を振り返り、そもそもなぜ大学が作られ、昔の大学生は何を勉強していたのかについて考えたいと思います。そこから今の教育の在るべき姿について少し考えていきたいと思います。

3.プラトンがヨーロッパを作った

世界史を勉強して、最初に出てくる学校名はプラトンの作った「アカデメイア」だと思います。学問や学術、学会などを意味する「academy(アカデミー)」の語源となっています。プラトンと聞いて真っ先に思い浮かぶのが「イデア論」です。少しイデア論の意味を確認していきましょう。イデア論は後のヨーロッパの教育のみならず、ヨーロッパ社会全体の方向性を決定づけた思想であるためです。

プラトンは、私たちが住む世界とは別にもう一つ世界が存在すると考えます。私たちが住んでいる世界をプラトンは「仮象の世界」と呼び、目の前に存在する天気や食べ物などあらゆるものは生成消滅し、変化していきます。一方でもう一つ別の世界では、あらゆるものは永遠に不滅で変化しないため、完璧な姿のまま存在します。この永遠不滅で変化しないあらゆるものをプラトンはイデアと呼び、その世界を「イデア界」としました。つまり世界は私たちの住む「仮象の世界」と「イデア界」の二つの世界が存在し、プラトンは「イデア界」の方に価値があると考えました。

プラトンの主張をもう少し見ていくと、かつて人間はイデア界に住んでいたが、その汚れのゆえに地上の世界(仮象の世界)に追放され、肉体という牢獄に押し込められてしまった。そして地上の世界(現象界)に降りる途中に「忘却の河」を渡ったため、かつて見ていたイデアをほとんど忘れてしまった。しかし何かのきっかけで地上(仮象)の世界に住んでいながら、イデアを思い出すときがある。

地上の世界(現象界)に住む私たちの課題はかつて住んでいたイデアの世界を思い出し(想起し)、現象界をイデア界のような完璧な世界に作り変えることだ。このようにプラトンは『国家』という書籍で主張しました。なんだか宗教のよう考え方ですが、実際にプラトンは若い時期に世界中を旅し、その途中でユダヤ教を知ったそうです。そのためプラトンの思想にユダヤ教が大きな影響を与えていることを指摘する人もいます。

4.西洋哲学はプラトンの脚注に過ぎない

少し難しいので具体的に考えて行きましょう。

例えば、私たちは目の前にいる犬と猫を区別することできます。その理由は、私たちの魂の中に「犬のイデア」と「猫のイデア」があり、そのイデアを通じて、目の前にいる生物を見るため、その生物を犬や猫として区別して認識することができます。

また私たちは机の絵を書くとき、このような机を書こうと頭の中でイメージを作ってから絵を書きます。また机を作るときも職人は机のイメージを頭の中で浮かべて、それに基づいて机を作っていきます。つまり、この「机のイメージ」が「机のイデア」になります。

私たちのあらゆる活動(モノを見るとき、絵を書いたり、机を作るとき、など)はイデアを思い出す(想起する)ことによって行われている。このようにプラトンは考えます。

プラトンのこうした考え方は後の西洋(ヨーロッパ)哲学の基礎となります。イギリスの哲学者であるホワイトヘッドは「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」と言い切っています。つまり西洋哲学はプラトンの思想を下敷きにしてしか物事を考えることができないということです。

プラトンの思想はその後、このような形で引き継がれます。私たちが住む世界の奥には、この世界を成り立たせている「普遍的な法則」のようなものが存在する。その普遍的な法則を探すことが人間の課題である。

5.イデア論とキリスト教の融合

そして大きく時代を飛び越えますが、中世ヨーロッパ時代に、このプラトンの思想とキリスト教が融合することになります。キリスト教にとって、普遍的な法則とは「神の存在」になります。そのため中世ヨーロッパでは「神とは何か」という課題を深く研究するために、11世紀頃からヨーロッパ各地で大学が設立されました。有名なのが、イタリアのボローニャ大学(1088年設立)やフランスのパリ大学(1257年設立)などで、ボローニャ大学がヨーロッパ最古の大学とされています。

大学は英語で「university(ユニバーシティ)」といいます。この語源はラテン語の「ウニベルシタス」に由来し、もともとは「普遍的なもの、統一されたもの」という意味で使われていました。「universal」という形容詞には「普遍的な」という意味があります。こうした言葉の意味からも、大学は普遍的なもの(神の存在)を学ぶことを目的にしていることが分かります。

ボローニャ大学には、ダンテやガリレオ、コペルニクスなど後のイタリア・ルネサンスを支えた名立たるメンバーが在籍しました。その大学でまず学ぶことは「神学」つまり神について学びます。「神学」を学んだ後、医学や政治学など各々の専門分野に別れていきます。当時は「神学」がもっとも重要な学問だったのです。

イタリア・ルネサンスの主要テーマはやはり「神」についてです。特にミケランジェロの絵画を見ていると、神の偉大さと同時に、神と対峙しているという緊迫感と神に少しでも近づきたいという切迫感を感じることができます。

6.世界(神)を知りたいという欲求が大学を作った

当時、ヨーロッパで大学が設立された背景には「世界(神)を知りたい」という強い欲求がありました。その欲求が芸術や文化などを生み出し、また社会を動かすエネルギーにもなります。アリストテレスは人間をこう定義しています。

「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。」

しかし、今の生徒を見ると「何かを知りたい」という強い気持ちを感じることができません。いかに効率よくテストで点を取るかのみに集中し、生徒たちからは学問を通じて何かを得たいとか、成長したいという目的はないように思います。

もちろん子どもたちに教育を提供している大人側にも問題はあります。日本の教科書の内容は絶望的につまらないです。こんな教科書をまともに使っていたら、子どもたちが勉強嫌いになるのは当たり前です。教科書からは、子ども達の知的好奇心をくすぐろうとする親切心のようなものを感じることはできません。こんな知識を教えてどんな意味があるのかという内容が異様な精密さで教えられています。

やはり変わらなくてはいけないのは大人たちです。子ども達が少しでも「楽しい」と感じるように教育のコンテンツ(内容)を変えていかなくてはいけないと思います。しかし教育界は今の相撲協会並みに保守的な世界です。改革には多大なエネルギーが必要です。私のような教育界の末端にいるような人間では到底無理なことです。

しかし、そんな力不足の私でも対抗できる部分があるとすれば、それは授業です。今の私にできることは、子どもたちのとって分かりやすく、楽しい授業を提供し、一人でも多くの子どもが学問に興味を持てるように努力することだと思っています。