セクシュアルマイノリティについて学習する機会が少ない 学校とジェンダー セクシュアルマイノリティ編2

セクシュアル・マイノリティへの心理的支援―同性愛,性同一性障害を理解する

私たち多くの異性愛者が、学校での生活の中で自分のセクシュアリティに触れる機会があります。もちろんセクシュアリティ自体は異性愛も同性愛も両性愛もトランスジェンダーもほぼ「選択」することはできず生まれながらに決まっていることされていることです。

「思春期になれば異性の人を好きになる」というように性教育の一環として多くの異性愛者が自分のセクシュアリティに触れます。

また家庭科の授業では家族のかたちとして「夫、妻、子ども」という典型の核家族が紹介されたり、保健体育の授業で二次性徴の一環として異性を好きになることを知ることもできます。

それ以外にも、このように直接的な機会でなくても異性愛者が異性愛に接する機会はあります。

国語や現代文、古文の小説で男女が恋愛する物語がありますし、社会や歴史では有力者の娘が権力者と結婚し、有力者と権力者が親戚関係になったという話などは多々出てきます。

しかしセクシュアルマイノリティはそういった学習機会はなかなか訪れません。

またすでに書いたように、友人や同級生の同性同士がふざけてじゃれ合っていれば笑いやからかいの言葉を向けることがありますが、異性の同級生や友人がじゃれ合っていれば、それは「日常」と判断されるでしょうし、あるいは微笑ましいシチュエーションとも見受けるかもしれません。つまり異性のじゃれ合いなどは自然なものと学んでいくのです。

学校の「科目」という場面でも、「日常生活」という場面でも、異性愛が自然だと、学んでいくのです。学習指導要領には「性の多様性」は学習内容として明記されておらず、いくつかの高等学校家庭科目の教科書以外、検定教科書にもこのことについての記載はありません。人権と言う点でいえば、「現代社会」の教科書に「性的指向」があった記憶があるのですが、実際学ぶことは少ないでしょう。

教科書の異性愛のみを取り扱った教科書は「(同性が好きな)自分は間違っているんだ」という不安や否定されたと感じ自己肯定感が構築されない可能性があります。ある同性愛者は「同性愛についての記述は見当たらず、教科書を読めば読むほど存在が否定されていると感じた」と生徒時代を振り返っています。

ちなみに、学校で決められた科目や学習をカリキュラムと言いますが、そのほかの日常生活(例えば教師との会話やセクシュアルマイノリティの教師がいないなどの状況)はカリキュラムには含まれていないけれども子どもたちに自然に身につけさせていくものという意味で「隠れたカリキュラム」と呼ばれたりします。