荒鷲関と峰崎部屋
脱臼と環境変化に耐えた唯一の関取、荒鷲関
現在、峰崎部屋に所属している関取は荒鷲関1人となっています。その荒鷲関は昭和61年8月生まれの30歳で、今年の初場所では西前頭2枚目で負け越しはしましたが、第69代横綱白鵬関と第71代横綱鶴竜関の2人から金星を挙げるなど最近になって力をつけてきましたが、それまでの道のりは遠く、特に第58代横綱千代の富士関のように、頻繁に脱臼して休場や全休して治療する期間があるなどしたため、安定して関取の地位に定着できるようになったのは今から丁度3年前からでした。
出典:力士プロフィール – 荒鷲 毅 – 日本相撲協会公式サイト
荒鷲関はモンゴル出身で、今から約15年前に大島部屋所属だった元小結旭鷲山関のスカウトなどを経て来日し、元小結二子岳関が師匠を務める当時の荒磯部屋に入門しました。この荒鷲という四股名は部屋の名前から取ったとされています。ところが、師匠の定年に伴って元関脇太寿山関が師匠の花籠部屋に転籍しました。さらに、その4年後に今の峰崎部屋との吸収に伴って部屋が消滅したことにより、短期間で2回も相撲部屋が変わることになりました。これに伴う環境変化も遅咲きの要因になったと思われます。しかし、そのような環境の下でも右四つからの上手投げや寄りの技術を身につけることができ、幕内に定着するだけの実力を擁して、今後の活躍が期待されている力士となっています。
峰崎部屋の師匠三杉磯関
峰崎部屋を興したのは、元三杉磯関で昭和31年5月生まれの60歳です。三杉磯関は当初、第54代横綱輪島関が師匠を務めていた花籠部屋に入門しました。しかし、入門して初土俵を踏んだのは昭和46年春場所だったので、当時は中学2年生の14歳に当たります。今では考えられませんが、当時は中学生でもプロである大相撲の門を叩くことが許されていました。現に昭和の大横綱として知られている第55代横綱北の湖関は昭和42年初場所で初土俵を踏んでいますが、その当時中学1年生でした。ちなみに、この制度は三杉磯関が入門した年の11月に廃止されています。三杉磯関は入門から5年半で関取、6年半で新入幕を果たすなど順調に出世していきましたが、最高位は西前頭2枚目でした。しかし、その中でも突っ張ってからの左四つに持ち込む相撲に強みがあり、そこからの寄りや投げを得意にしていました。この強みを活かして昭和54年の秋場所には北の湖関と武蔵川部屋の師匠や相撲協会の理事長を務めたことのある第56代横綱三重ノ海関の2人から金星を勝ち取る等の活躍を見せました。
三杉磯関というと胴長な体格が特徴的で、時津風部屋に所属した元蔵馬関や、出羽の海部屋に所属していた元出羽の花関と並んで、角界の美男幕内力士トリオとして人気がありました。ちなみにこの2人は関脇まで昇進したほどの実力も持っていました。
暫くは幕内の土俵で活躍していたものの、昭和60年12月に当時の師匠の不祥事の影響で部屋が閉鎖してしまい、同じ一門で、元大関魁傑関が師匠を務めていた放駒部屋に転籍しました。これ以降勝ち越しを果たすのが難しくなり、部屋の閉鎖から1年以内に現役を引退し、峰崎親方として放駒部屋の部屋付き親方となりました。ちなみに三杉磯関は現役中に8回も四股名を変えている珍しい力士です。ちなみに、おかみさんは青森県出身で師匠よりも2歳年下です。
放駒部屋から独立する形で誕生した峰崎部屋
現役を引退してから2年後の昭和63年12月に、三杉磯関が放駒部屋から独立する形で峰崎部屋が誕生しました。
峰崎部屋は東京都練馬区内の住宅街の一角にあります。近くには光が丘公園があり、少し足を伸ばせば埼玉県に行けるぐらいの位置なので、国技館からは少し距離があることになります。現在部屋には荒鷲関を含めて13人の力士が在籍しています。さらに行司では幕内格の木村銀治郎をはじめ3人、十両格呼出が2人、若手の床山1人に加えて、先述した先代花籠部屋師匠と、おかみさんの少なくとも21人が同じ部屋で生活しています。なお、事前連絡すれば稽古を見学することもできます。