昭和最後の大横綱、千代の富士の生涯

千代の富士の四股名は九重部屋の2人の師匠の四股名から誕生した

現在の九重部屋の師匠は元大関千代大海関で14代目に当たりますが、13代目の師匠だったのが、昭和の大横綱として知られている第58代横綱千代の富士関でした。去年7月末に61歳で亡くなり、多くのメディアで取り上げられるほどの出来事となりました。

出典:http://www.nikkei.com/article/DGXZZO05498000R00C16A8000000/

千代の富士関は昭和30年6月に北海道の福島町で誕生しました。少年時代は実家で営む漁師の仕事の手伝いをしたり、陸上競技の部活をしたりして運動神経を鍛えてきました。

前者の例は、当時の日本では農業や漁業などの第1次産業が主流だった時代だったため、珍しいことではなく、実家での仕事の手伝いが体力の向上に繋がった例として、相撲界で未だに破られていない69連勝を記録するなどの大記録を残し、引退後は時津風部屋を興し、日本相撲協会の理事長も務めた第35代横綱双葉山関が挙げられます。双葉山関の実家は海運業を営んでいて、その手伝いの過程で足腰を鍛えることに繋がる一因となりました。

また、後者は走り高跳びなどで地元の大会に優勝するほどの実力がありました。中学校在学中に同じ故郷出身で、当時の九重部屋師匠であった第41代横綱千代の山関からスカウトされて上京し、そのまま九重部屋に入門しました。そして入門から半年もたたない昭和46年初場所に千代の富士という四股名が与えられました。この四股名は師匠の名前と、次の師匠に当たり、現在は解説者として有名な第52代横綱北の富士関から取られたもので、4年間は「千代の冨士」という四股名で相撲を取っていました。ちなみに千代の富士関は当初、相撲に興味がなく、飛行機に乗れるというメリットがあったため上京したという逸話が残っています。また、千代の富士関は「ウルフ」とよく呼ばれていましたが、これは師匠の何気なく発せられた一言から広まったとされています。

脱臼を克服して十八番の1つで横綱へ昇進

千代の富士関は体重が100kgに満たない軽量力士ではあったものの、入門から4年で関取の座を掴み、丸5年で新入幕を果たすことができました。しかし、当初は強引に投げるなどの力任せな取り口が多かったため、肩を複数回脱臼するなどの怪我に苦しめられ関取の座から陥落することもあったり、休場したりしたぐらいでした。それでも、専門の医師から勧められた腕立て伏せやウェイトトレーニングなどの筋肉トレーニングをメニューに組み入れることで肩を補強することができ、右四つになってから廻しを取って一気に寄って出るという十八番と言える強みを完成させることができ、20歳代後半から急速に番付を上げていきました。それだけでなく、当時、力士としては珍しく丸々と太った体格でなく、筋骨隆々な体格を手に入れることができ、この体に憧れるファンが現れるほど人気も高まっていきました。この間に先代師匠が亡くなって北の富士関が部屋を継承する出来事もあるなど、環境の変化も多少影響をしたのかもしれません。

こうして十八番を身につけた千代の富士関は一気に番付を上がっていきました。昭和55年春場所に元間垣部屋師匠の第56代横綱若乃花関と元武蔵川部屋師匠の第57代横綱三重ノ海関の2人から初金星を挙げてから、丁度1年後に大関に昇進し、さらに半年後の昭和56年名古屋場所を14勝で2回目の幕内優勝をした後に第58代横綱に昇進しました。実力が十分にもかかわらず、三賞が技能賞5回を含めて計7回だったり、金星が3個だったりと少し少なめなのは三賞の対象が関脇以下、金星の場合は平幕の力士だからです。また、大関と三役に在位したのが通算で8場所だったことからも、活躍ぶりがうかがえると思います。ちなみに、急に相撲が変わって強くなることを「相撲が化ける」と言われています。千代の富士関のケースでは、まさに該当すると言えると思います。特に昭和56年は関脇・大関・横綱の番付で幕内最高優勝する記録を残しています。

もう一つの十八番などで53連勝の大記録を残す

横綱に昇進した後の千代の富士関は先述した体型と十八番の豪快さと早さを備えた相撲内容で人気及び成績は絶好調でした。前者は、特に女性や子供に人気があり、ウルフフィーバーと呼ばれたほどでした。後者も昭和57年に4回の幕内最高優勝と年間最多勝を獲得するなど横綱として成績抜群と評価されるほどでした。

ところが、30歳代に迫るころに股関節捻挫や脱臼の再発などで休場するなど一時低迷してしまい、その間に先代鳴戸部屋師匠で二子山部屋に所属していた隆の里関が第59代横綱に昇進するなど主役も変わりつつありました。しかし、昭和60年初場所に両国国技館が完成したあたりから復活し、翌年には春場所に休場した以外の場所を制覇した上、昭和62年初場所にかけて5連覇を達成しました。そして、昭和63年には夏場所7日目から53連勝という大記録を残しました。ちなみに、この記録は第69代横綱白鵬関が7年前に63連勝を記録して抜かれるまで史上2位の記録でした。

この記録を作る頃には千代の富士関は33歳になっており、力士の場合、引退してもおかしくない年齢です。同時期に活躍していた横綱では、彼の弟弟子で、現八角部屋師匠の第61代横綱北勝海関や現芝田山部屋師匠の第62代横綱大乃国関は30歳を前に現役を引退しています。このような年齢でも記録を達成できた要因として、先述した十八番の他に、もう1つの強みである右四つに組んでから相手の頭を押さえつけるように上手投げを打つ技を併用できたことが考えられます。この技はウルフスペシャルとも呼ばれていて、横綱に上がってから身につけたものでした。

時代が昭和から平成に変わっても5回も幕内最高優勝を果たすなどの実力は残っており、今から27年前の春場所では7日目に放駒部屋に所属していた花ノ国関を破って、当時としては史上初めて通算勝ち星1000勝を達成しました。

しかし、平成3年夏場所に当時18歳の第65代横綱貴乃花関に完敗するなどしたため、現役を引退しました。最終的に横綱に10年近く在位し、力士生活約20年半の中で残した幕内最高優勝は31回で歴代3位、通算勝ち星1045勝も歴代2位で、昭和最後の大横綱と評価されていることが多くなっています。なお、日本相撲協会から一代年寄の称号を与えられかけましたが、千代の富士関は辞退という逸話も残っています。ちなみにこの一代年寄になると自分の四股名で定年まで親方として務めることができ、部屋の師匠になれば四股名を冠した部屋を持つことができるようになり、現在では貴乃花部屋が該当します。

九重部屋の師匠として後進の指導に当たった人生

千代の富士関は現役を引退して1年間は陣幕親方として九重部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていましたが、平成4年の夏場所前に当時の師匠だった元北の富士関と名跡を交換する形で九重部屋を継承しました。九重部屋師匠としては、いずれも中学卒業で入門した現九重部屋師匠である元千代大海関を大関まで、元千代天山関を小結まで昇進させるほどの実績を残した上、最近では学生相撲などを経験した千代大龍関を始め、千代の国関や千代丸関など平成生まれの関取を次々と輩出していきました。このように近年になって関取を次々と誕生させることができた理由として、弟子間のライバル意識がプラスに働いただけでなく、弟子との交換日記でアドバイスを送るなど、弟子を第一に考える育成方針を取ったことも要因ではないかと考えられます。

日本相撲協会の職員としても平成20年から6年間理事を務めてナンバー2として指揮を取ったりし、亡くなる1年前には60歳を迎えて両国国技館で10人目の還暦土俵入りを披露することができたりするなど活躍及び話題の幅が広まるような活動を熟していました。この還暦土俵入りには白鵬関と第70代横綱日馬富士関の両横綱が太刀持ちと露払いを務めたことは記憶に新しいと思います。