藤島部屋と親方紹介

元大関武双山関が師匠の藤島部屋とは

現在の師匠である元武双山関が部屋の師匠を務めている藤島部屋は荒川区東日暮里に部屋があり、JR山手線と京浜東北線の鶯谷駅か日暮里駅が最寄り駅であり、そこから国技館へはJR線を使えば1回の乗り換えにより20分ほどで行くことができます。ちなみに、以前第65代横綱貴乃花関と第66代横綱若乃花関の若貴兄弟などが所属していた頃の藤島部屋は中野区内に部屋がありましたが、これは二所ノ関一門に属していた部屋の事を指し、今回取り上げる部屋とは別になります。

現在、藤島部屋には1年前まで関取を務めていた翔天浪をはじめ、幕下3人、三段目6人、序二段4人、序ノ口1人の計14人の力士が所属しています。これに加えて学生相撲出身者1人が、この春場所から加わります。さらに床山と世話人が1人ずつと、親方が4人の少なくとも23人が共同生活をしています。なお、朝稽古の見学は春場所などの地方場所で行っております。

現在の藤島部屋師匠、元武双山関の紹介

現在の藤島部屋師匠は元大関武双山関で、昭和47年2月生まれの45歳です。武双山関の父親は地元茨城県の相撲連盟理事長の肩書きを持っていたり、アマチュア力士として国体に複数回出場したりするなどの実力者で、この下で育ったこともあり、少年時代は小学校高学年以降を中心に相撲漬けの生活を送っていました。ただ、そのような生活を始めた当初は身長が140cm台に対し、体重が37kgで普通の体型よりも小さかった上、体が硬かったため、四股踏みや摺り足などの基礎稽古や実践稽古に加え、米俵ほどの重さがあるボールを持ってのスクワットや腕立て伏せなどの運動を何百回も父から受けました。さらに朝稽古後には大人2人前以上の食事を平らげたり、父手作りの特大弁当を昼食に食べたりすることなども命じられ、相撲部屋での生活と殆ど変わらないメニュー内容で体を作っていきました。このような生活で実力を伸ばして行き、高校3年生で高校横綱を獲得し、専修大学3年生の時には全日本相撲選手権大会で優勝するほどの実績を残しました。この実績を評価され、21歳になる直前の平成5年初場所に第57代横綱三重ノ海関が師匠を務める武蔵川部屋に入門し、幕下付け出しから初土俵を踏むことができました。ちなみに当時の学生相撲は武双山関に並んで、同学年で伊勢ノ海部屋所属の現立川親方で元関脇土佐ノ海関も強く、武双山関の本名である尾曽と、土佐ノ海関の本名である山本から、「東の尾曽、西の山本」と称されるほどでした。

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武双山関は、突き押し相撲のような廻しを取らない内容に強みを持つだけでなく、左四つに組んでからの寄り技も強いのが特徴で、それが相撲界に入門してすぐに活かすことができ、幕下付け出しから2場所連続で幕下優勝を収めて、関取の座を掴み、入門した年の9月場所には新入幕を果たし、入門して丸1年後には第64代横綱曙関から金星を上げて、三賞の1つである殊勲賞を獲得しました。その次の場所からは三役にも定着するようになりました。ただ、体が硬いことから左肩の関節を脱臼する怪我を何回もして途中休場したり全休したりする場所もあり、三役より上に昇進するまでは時間はかかりました。それでも、平成12年初場所に13勝の成績で幕内最高優勝を果たし、その次の場所も12勝を上げて大関に昇進しました。だが、昇進後すぐに腰椎の椎間板を痛めた影響で休場し、そのまま陥落してしましました。陥落後の場所で10勝を上げて大関に復帰し、先述したような脱臼などによる途中休場する場所が複数回ありましたが、それ以降4年間は大関の番付で相撲を取り続けることができ、平成16年九州場所で現役を引退し、藤島親方として武蔵川部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たった後、約6年後に武蔵川部屋師匠から部屋を譲り受ける形で継承しました。

出る出る出島で番付を上がった元大関出島関の大鳴戸親方

藤島部屋には4人の部屋付き親方がおり、うち2人は大関まで昇進した実力者です。共に大関を経験した期間は少なかったものの、陥落した後も幕内で土俵を務め続けられるほどの実力を持っていました。

まず、元大関出島関の大鳴戸親方は昭和49年3月生まれで間もなく43歳になります。出島関の故郷は追手風部屋所属の遠藤関と同じ相撲が盛んな石川県で、少年時代は相撲を経験し、高校生の時には高校横綱や国体優勝などの成績を残しました。中央大学に進学した後も、この成績を残すほどの実績を残すことができ、幕下付出の資格を有したうえで、同じ相撲部で3年先輩だった元武哲山関からのスカウトがきっかけで、卒業後の平成8年春場所に武蔵川部屋に入門して初土俵を踏みました。

大相撲カード 2000年 【彩】 大関・出島武春<71> 武蔵川部屋 BBM

当時の武蔵川部屋には先述した武双山関の他、第67代横綱武蔵丸関など次々と幕内上位で活躍力士が輩出していく環境だったため、出島関も入門して半年後には関取の座を掴み、1年後には新入幕を果たすというスピード出世でした。しかも、この新入幕の場所では11勝を記録して、敢闘賞と技能賞の三賞2つも獲得しました。その出島関の強みは右四つに組んでから寄り切るというものもありますが、やはり印象的なのは、廻しを取らずに一気に相手を押し出すことではないかと思います。出足が伴って一気に相手を押し出したときは「出る出る出島」と呼ばれて一時話題になったほどでした。特に平成15年春場所で当時、新横綱だった第68代横綱朝青龍関に対して、勝利した時には会場もかなり盛り上がっていたのではないかと思います。ちなみに、この4年後には金星をこの朝青龍関から獲得しています。

しかし、入門してから2年近く経った頃、取組中に左足首を大怪我してしまい、そこから半年近くも休場してしまいました。大怪我をする前の平成9年秋場所では第64代横綱曙関と第65代横綱貴乃花関の2人から金星を獲得するなどの活躍を見せていただけに悔やまれるものでした。それでも休場明けの場所から敢闘賞を獲得し、次の場所では、曙関と第6代横綱若乃花関の2人から金星を勝ち取るなど、好成績での勝ち越しを重ね続けて復活することができました。そして平成11年名古屋場所で13勝の成績で幕内最高優勝を果たして大関に昇進できました。ちなみに、この場所では殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞を全て獲得していました。大関としては2ケタ勝利をほぼ安定して取れるほどの実績を収めていましたが、重症の蜂窩織炎という病を患って休場してしまい、2年間守っていた大関から陥落してしまいました。ただ、陥落した後も2個の金星を上げたり、敢闘賞を1回受賞したりするなど活躍する場所もあり、元大関力士として丸8年間幕内で相撲を取り続けることができました。その後、現役を35歳で引退して、大鳴戸親方として部屋の後進の指導に当たっています。

大関再挑戦で陥落後、話題になった元大関雅山関の二子山親方

もう1人の大関経験者の親方は、元雅山関である二子山親方です。昭和52年7月生まれの39歳で、武双山関と同じ茨城県水戸市出身で、少年時代には、この武双山関の父親からの指導の下で相撲の力を蓄えていき、明治大学に在籍していたときに東日本学生相撲個人体重別選手権無差別級などの大会を制覇する実績を残すことができました。この実績が評価され、大学3年生だった平成10年名古屋場所に武蔵川部屋から幕下付出で初土俵を踏みました。

BBM2015大相撲カード「レジェンド」至宝■レギュラーカード■16大関/雅山

雅山関の強みは突っ張って土俵外まで持っていく相撲ですが、その他にも右四つになってからの寄り技も得意の1つでした。さらに突いてから回り込む器用さも兼ね備えていたため、入門してから4場所連続で幕下と十両の優勝を収めて、1年も経たないうちに新入幕を果たしました。ちなみに幕下では全て7戦全勝での優勝でした。その直後に、四股名を本名の竹内から雅山に変えています。このようなスピード出世だったため、髷が結えずザンバラ髪で幕内の土俵で相撲を取ることになり、当時20世紀最後の怪物と呼ばれるなど話題になりました。ちなみに、このような例は、現在では出羽海部屋に所属している御嶽海関など数例ありますが、当時は学生相撲出身力士が今よりも少なかったため、話題になったと考えられます。この勢いは止まらず、平成12年には3場所連続で三役の地位で11勝以上の成績と三賞を受賞する成績を収めて夏場所後に大関に昇進しました。この時、入門してまだ2年しか経っておらず、このスピード昇進は史上最速記録として今でも破られていません。

しかし、大関に昇進すると成績が伸び悩んでしまい、4場所勝ち越しただけで、わずか1年半弱で大関から陥落してしまいました。しかも、場所中に左足の骨折と脱臼をしてしまう大怪我をして途中休場した末の陥落でした。それでも、この怪我から復帰できたのは半年後から引退までの11年間は7年前の名古屋場所での出場停止後と引退した場所の計2場所だけ十両に陥落した以外は、幕内の地位で相撲を取り続けるなどの実力は持っており、特に、土俵に復帰してから2年ほど過ぎた平成16年名古屋場所からの2年半の間は幕内上位で活躍し、2度も三役に1年近く定着したり、殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞を1個ずつ獲得できたりするなどの好成績を収め、三役に定着していた期間のうち後半に当たる期間は関脇の地位で優勝同点の14勝の成績を残すなど、大関昇進の目安の白星を残していたこともあり、もう一度大関に昇進するのではないかという期待から再び注目の的になっていました。最終的に、それは叶いませんでしたが、平成20年秋場所には第68代横綱朝青龍関から2度目の金星を取ったり、その1年後には前頭9枚目で12勝を上げて敢闘賞を獲得したりするなど幕内で活躍し、平成25年春場所後に現役を引退し、二子山親方として、部屋の後進の指導に当たっています。

突き押し相撲が強みだった元武雄山関の山分親方

元武雄山関の山分親方は昭和49年7月生まれの42歳で、少年時代は相撲の他に水泳とバスケットボールを経験していました。武雄山関の故郷は佐渡ヶ嶽部屋に所属していた元大関琴光喜関と同じ愛知県で、中学生の時に1回対戦したこともありました。明治大学である程度の実績を残した後、平成9年春場所に武蔵川部屋から幕下付出として初土俵を踏みました。

武雄山関の強みは廻しを取らない突き押し相撲であり、この強みを活かして入門して3年後に関取の座を掴み、そこから1年半後の平成13年九州場所には新入幕を果たしました。この場所から2場所連続で2桁の成績を上げて連続して敢闘賞を獲得できたり、5年間関取に定着できたりするなどの活躍を示して、新入幕から丁度6年後に現役を引退しました。引退後は、大鳴戸親方として後進の指導に当たっていましたが、関ノ戸親方を得て、今から6年半前に山分の名跡を取得して現在に至っています。

花のゴーイチ組の1人として活躍した元武州山関の清見潟親方

元武州山関の清見潟親方は昭和51年5月生まれの40歳で、少年時代は野球と相撲を経験していました。特に後者では、現西岩親方で鳴戸部屋に所属していた元関脇若の里関と現振分親方で東関部屋所属の元小結高見盛関と同じ青森県出身だったため、この2人と中学生の頃からライバルであり、相撲界に入った後も所謂「花のゴーイチ組」の1人として幕内の土俵を盛り上げました。大東文化大学に進学した後も相撲を続け、全国大会に出場するなどの実績を残して、卒業後は監督の紹介で武蔵川部屋に幕下付出として入門しました。

武州山関は右肘の怪我などの影響で関取に昇進するまで5年近くを要し、入門してから約10年後に新入幕を果たすなど遅咲きの力士でしたが、体重が170kg台の大型の体型を活かした左四つからの寄りを強みにした内容で新入幕から3年半の間、関取に定着するほどの実績を残しました。現役を引退したのは今から4年前の初場所で、その直後は小野川親方として後進の指導に当たっていましたが、3年後に今の清見潟に名跡を変えて現在に至っています。

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