錣山部屋と親方・関取紹介
元寺尾関が師匠を務める錣山部屋とは
元関脇寺尾関が師匠を務める錣山部屋は、兄で元関脇逆鉾関が師匠を務める井筒部屋で引退して1年強の間部屋付き親方として後進の指導に当たった後、独立して誕生させた部屋です。その錣山部屋は江東区清澄に部屋を構えていて、周辺には清澄庭園があります。最寄り駅である清澄白河駅へも近く、そこから国技館へは地下鉄大江戸線1本で行くことができるようになっているので、通いやすい地にあるのではないかと思います。
現在、錣山部屋には十両の青狼関を始め、幕下では2年前に関取を経験している阿炎や彩・葵・寺尾の4人、三段目が大和嵐・大海原・寺尾海・寺尾翔・登竜の5人、序二段が若荒輝・臥牛山・寺尾若の3人、入門したての序ノ口力士として原田の計14人が在籍していますが、これらの四股名の特徴として序ノ口力士以外は、寺尾海のように師匠の四股名をそのままもらっているパターンや、彩・大和嵐のように昔から引き継ぐ伝統的なパターン、登竜のように気持ちや願いが込められたパターンの3通りに分類できるのではないかと思います。力士の他にも、元小結豊真将関の立田川親方と、呼出、床山の1人ずつも所属しており、少なくとも19人が共同生活をしています。ちなみに錣山部屋のおかみさんは昭和29年生まれの62歳で姉さん女房となっており、22年前に当時十両の番付だった師匠と結婚しました。
錣山部屋では連絡すれば朝稽古を見学できる可能性があります。また、相撲部屋本場で頂く、ちゃんこ鍋とは少し異なりますが、JR両国駅の近くに相撲茶屋寺尾という親方が経営しているちゃんこ屋があり、そこで鶏豚の合挽肉で作る肉団子と、柚子胡椒が入った伝統的な味のちゃんこ鍋を食べることができ、味も定番の味噌味の他にカレー味などオリジナルの物も含めて5種類を楽しむことができます。
錣山部屋の師匠、元寺尾関の紹介
その錣山部屋を興した元寺尾関は昭和38年2月生まれの54歳で、早生まれではありましたが、立浪部屋に所属していた第60代横綱双羽黒関や現八角部屋師匠で九重部屋に所属していた第61代横綱北勝海関などと共に「花のサンパチ組」の1人として昭和の終わりから平成の初期にかけて幕内の土俵を盛り上げたことで知られています。寺尾関の父親は双差しを強みとした相撲で活躍した先代井筒部屋師匠の元関脇鶴ヶ嶺関、母親は元井筒部屋師匠の第25代横綱西ノ海関の孫娘という相撲一家ではありましたが、相撲を始めたのは高校に入ってからでした。それでも相撲を取ることに興味を示すようになり、高校2年生だった昭和54年名古屋場所に父親のもとに弟子入りして、初土俵を踏みました。ちなみに、寺尾関の2人の兄は、元十両鶴嶺山関と現在の井筒部屋師匠である元関脇逆鉾関で共に井筒部屋に入門して関取として活躍していたこともあり、寺尾関は井筒3兄弟の末っ子の位置づけとして紹介されたこともあるほどでした。
寺尾関は関取になるまで体重が100kgもなく、最も重かったときでも110kg台の軽量力士ではありましたが、得意としていたのが廻しを取らずに高速で突っ張ったり押したりする相撲で、その過程で相手をいなしてから攻めるなど全体的に俊敏な動きを強みとした相撲で入門して丸5年で関取の座を掴み、それ以降引退するまで関取の地位を安定して保つ実力を有していました。ちなみに関取になって1年も経たない昭和60年春場所に新入幕を果たし、先に入幕していた逆鉾関と共に兄弟同時幕内力士が誕生したと一時話題になりました。先述した強みだけでなく、右手を差してからの下手投げや、双差しになって攻めるなど相手と組んでの相撲も取れることが関取になって1年後からは幕内の土俵で通用するようになり、特に平成に入ってからは安定して三役の座に就くことができるようになったり、昭和の大横綱と平成の大横綱の1人としてそれぞれ知られている第58代千代の富士関や第65代横綱貴乃花関など計5人の横綱から金星を獲得したりする実績を残しました。また、この間に殊勲賞を3回獲得するなど三賞を6個も獲得しています。この好成績と先述したソップ型の体型から若い女性を中心に人気を博していました。
寺尾関の特徴の1つとして、長い間丈夫な体を保ちながら強みのツッパリ相撲が最後まで生かし続けられた点があるのではないかと思います。34歳になった平成9年春場所に取り組み中に右足の親指を骨折して休場するまで18年近くも連続して土俵に立ち続けることができたり、平成11年九州場所には第67代横綱武蔵丸関に対しても得意の技で最後の金星を獲得したりしていました。21世紀に入ると力士の大型化が顕著に表れてしまい、軽量力士にとって突っ張りでは対応が厳しくなったことなどから、平成14年秋場所中に現役を引退しましたが、土俵生活は23年に及び、これは現浅香山部屋師匠で元大関魁皇関や現大島親方で元関脇旭天鵬関といったレジェットとされている関取と同じぐらい長く土俵を務めたことになります。引退後は錣山親方として1年強の間、井筒部屋に残って後進の指導に当たっていました。
礼儀正しさが印象的な元豊真将関の立田川親方
錣山部屋で唯一親方として後進の指導に当たっているのが、元豊真将関の立田川親方です。豊真将関は昭和56年4月生まれの35歳で、少年時代から相撲中心の生活をしており、高校時代には全国大会に出場するほどの実力を持っていましたが、大学時代に病気が悪化した影響で相撲を続けられなくなってしまいました。それから3年ほど経った後、当時働いていた勤務先の社長の紹介から、平成16年春場所に錣山部屋に入門して初土俵を踏みましたが、これは当時の年齢制限である23歳ギリギリでの入門でした。また、錣山部屋ができて最初の新弟子の1人となりました。
豊真将関の強みは、低い姿勢で相手に当たった後、右四つの形で組み、左手で前褌を掴んでから寄り切ったり、倒したりする内容で、先述した3年間のブランクの影響が多少あったものの、入門して11場所で関取の座を掴み、入門して2年後には新入幕を果たしました。そこからの7年間は安定して幕内の地位に定着するようになりました。この間には11勝以上の成績を上げた事によって敢闘賞と技能賞の三賞を計7回受賞したり、勝ち越すことはできませんでしたが、小結を3場所務めたりするほどの実力はありました。そして、成績よりも印象的だったのは、取り組みを始める前に土俵に入る所から、勝負が終わって土俵に下りるまでの間、塵や手刀を切る等の所作や、入退場の深々とした礼をすごく丁寧に行う姿勢を毎回行っていたことではないかと思います。このような所作や姿勢は昔から例に始まって礼に終わるという相撲道の潔さをそのまま表したものであり、相撲界の関係者やファンなどから高評価を得ていました。
しかし、4年前の初場所前に左肩の腱板断裂という大怪我をして休場した後は病気や右肘脱臼などの怪我などにより土俵を務めるのが難しくなり、2年前の初場所中に現役を引退し、立田川親方として後進の指導に当たっています。
現在、錣山部屋で唯一の関取である青狼関の紹介
現在、錣山部屋に所属している関取として青狼関がいます。その青狼関は昭和63年8月生まれの28歳で、師匠のスカウトを経てモンゴルから来日し、平成17年名古屋場所で初土俵を踏みました。入門した当初は体重が100kgも満たない軽量力士だったため、昇進するスピードはゆっくりでしたが、立ち合いで頭から当たるようにするなど、相撲内容を改良した結果、入門して8年後には関取の座を掴み、その2年後には新入幕を26歳で果たしました。
青狼関の強みは右四つに組んでからの寄りや左からの上手投げで、左の前褌を掴んでから攻めることもでき、この強みを活かした相撲で関取に昇進してから4年近く安定して関取の座に定着しており、今後は通算3場所務めた幕内に再び復帰できるか注目される力士の1人とされています。