貴乃花関の片腕だった元貴ノ浪関とは

貴乃花関と同部屋で相撲を取っていた元貴ノ浪関

平成の最初の大横綱とも称されており、現在では一代年寄として唯一部屋を構えている第65代横綱貴乃花関の部屋には、貴乃花関を含めて3人の親方がいました。1人は現在音羽山親方として後進の指導に当たっていて、宮城野部屋所属だった元幕内光法関がおり、もう1人が先代音羽山親方だった元大関貴ノ浪関です。

大相撲カード 1999年上半期版 BBM 貴ノ浪貞博<10> 二子山部屋

その貴ノ浪関は昭和46年10月に相撲どころで知られている青森県で生まれました。中学卒業後の昭和62年春場所に元大関貴ノ花関が師匠を務める藤島部屋のスカウトを受け入門し、初土俵を踏みました。この丁度1年後に入門した貴乃花関よりも昇進するスピードは遅かったものの、入門して4年後には関取の座を掴み、その年の九州場所には20歳の若さで新入幕を果たしました。それ以降、引退するまでの約13年間、幕内の土俵を務め続けました。

元貴ノ浪関は大型力士のわりに多彩な技で大関も務めた

貴ノ浪関は、基本的には左四つに組んでからの寄りや上手投げに強みを持っていましたが、身長が2m近くあり、体重も170kgを越えている長身力士の1人だったため、長い手足と強い足腰を活かして相手に双差しを許してもそれを引っ張り込んで挟み付けて、そのまま土俵の外へ持って行ったり、土俵内で倒したりすることも得意にしていました。また、相手の腕を掴んで投げ飛ばす小手投げも可能でした。さらに、足技の1つである掛け技も土俵の中で決めており、中でも掛けと反りの両方が求められる河津掛けを得意にしており、この相撲で平成8年初場所に貴乃花関を倒して幕内最高優勝を果たしたこともありました。

このような強みと技を活かした相撲で番付を徐々に上げていき、入幕1年半後には三役の番付に定着し、平成6年初場所に関脇で13勝の成績を上げて大関昇進を決めました。ちなみに、この場所で三賞の敢闘賞を受賞しました。また、大関昇進は同い年の武蔵川部屋に所属していた第67代横綱武蔵丸関との同時昇進で、この2人は最終的に58回対戦が組まれるなどのライバル関係を築くことになりました。

大関時代に2回幕内優勝をする等の実績を残しましたが、第64代曙関など突き押し相撲を得意とする相手を苦手としていた点や、足首の怪我などが響いた点から1回は関脇で10勝を上げて大関に復帰しましたが、最終的には大関に昇進して6年後には陥落してしまいました。それでも、陥落して4年間は相撲を取り続け、その間に先述の武蔵丸関から2回金星を上げたり、敢闘賞を1回受賞したりするなどの実績を残しています。

貴乃花部屋の片腕として活躍した親方時代

貴ノ浪関が現役を引退したのは平成16年夏場所で当時32歳でした。引退した後すぐに音羽山親方として活動を始めました。まず、引退した当時は既に貴乃花関は部屋を継いでいて、相撲協会でも役員待遇クラスという上位職に就いていたことや、スカウト活動やマスコミなどのメディアの対応などで部屋を空けていることが多かったため、貴乃花関の片腕として部屋での後進の指導を主に担当していました。

現役時代は、気持ちを表に出したり、周囲にハッキリと公言したりしないことが理想とされる昔のお相撲さんというタイプとは異なり、木瀬部屋所属の臥牙丸関のように相撲内容を取組後のインタビューで話したり、部屋の裏話などをバライティ番組で公にして笑いを取ったりするなどの多弁な性格だったことからNHKの大相撲中継では毎場所のように呼ばれて解説を担当するようになり周囲からは高評価を得ていました。ちなみに当時、このような性格の力士が少なかったこともあり、「影の広報部長」と呼ばれていました。また、引退して6年後には相撲協会の広報部担当にも抜擢され、そこで2期4年間働いた経験も持っていました。

今から2年前に亡くなってしまいましたが、貴ノ浪関は貴乃花部屋の片腕としてだけでなく、現役時代の性格を活かして広報関係としても活躍した親方でした。