大嶽部屋と関取紹介

元大竜関が師匠を務める大嶽部屋とは

大嶽部屋は昭和の大横綱である第48代横綱大鵬関が興した大鵬部屋が起源であり、部屋には大鵬道場という看板もおかれています。その大鵬関の定年退職によって13年前に当時の大嶽親方だった元関脇貴闘力関が部屋を継承して名前も大嶽部屋に変わりました。しかし、その6年半後に協会内の問題で解雇されたことに伴って元大竜関が部屋を継承して現在に至ります。

その大嶽部屋は江東区清澄に部屋を構えており、隅田川に近く、清澄橋や清澄庭園が近辺にあり、最寄りの清澄白河駅から国技館へは地下鉄大江戸線を用いて2駅で行くことができる所に位置しています。現在、大嶽部屋には十両に大砂嵐関がいる他、幕下に玄界鵬、三段目に神嶽、電山、闘鵬、銀星山の4人、序二段に望月、新屋敷、大勢竜、露草、勇竜の5人、序ノ口に柳川の計12人の力士が在籍しており四股名としては本名で取っているケースを除いて、師匠の四股名や大鵬の字から1字分与えられていることが多いという特徴があります。また、力士の他に幕内呼出の吾郎を始め呼出が3人、床山が1人、世話人を務めている元幕下友鵬も所属しており、少なくとも19人が共同生活をしています。

現在の大嶽部屋の師匠、元大竜関の紹介

現在、大嶽部屋の師匠を務めている元大竜関は昭和35年9月生まれの56歳で、少年時代はサッカーを経験していましたが、中卒後に友人の紹介などで大鵬部屋に入門し初土俵を踏みました。

大竜関は左四つに組み止めてからの寄りに強みを持っており、入門して3年後には幕下に昇進したものの、そこでの壁が厚く関取の座を掴んだのは、入門してほぼ12年後の昭和63年春場所でした。しかし、そこから3年近く関取の地位に定着しました。1度は幕下に陥落したものの、30歳代後半が近づいた平成6年夏場所から1年間も同じように十両の番付で相撲を取ることができ、合計4年以上関取を務めたことにより、平成9年名古屋場所後に37歳で現役を引退した後に親方として後進の指導に当たる資格が与えられました。

ただし、大竜関は借株として協会に残ったため、ほぼ3年に1回のペースで名前が変わりました。具体的には初めの大嶽親方から、佐ノ山、山響、二子山と3回も変更されてきました。このような不安定な環境下でも、日本相撲協会の内部では長期にわたって相撲教習所の講師を務めたり、決まり手係を担当したりするなどの実績を上げてきました。そして、今から7年前の平成22年名古屋場所に元の大嶽親方に戻る形で部屋を継承しました。

エジプトのパイオニア力士、大砂嵐関

大嶽部屋で唯一関取として土俵に立っている大砂嵐関は平成4年2月生まれの25歳で、少年時代は出身地のエジプトで始めはボディービルの経験を持っていました。中学生に当たる年齢で体の小さい相手に相撲で全敗したことをきっかけに、相撲に独学で打ち込み始め、数年後には世界ジュニア選手権の無差別級で3位の実績を上げるまでになりました。この経験をプロで活かすべく19歳の時に来日して複数の部屋で体験入門をした後に7部屋目の大嶽部屋での入門が決まり、平成24年春場所に20歳で初土俵を踏みました。

出典: http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile?id=3378

大砂嵐関の強みは廻しを取らずに立ち合いから、かち上げたり、突っ張ったりしたりして攻めていく突き押し相撲であり、入門して1年半近くで関取の座を掴み、エジプトを含め、アフリカ大陸で初の関取が誕生したことになり、当時話題になりました。さらに十両を2場所で通過するスピード出世で平成25年九州場所には21歳で新入幕を果たすことができました。そこから2年間は幕内の番付に定着し、その間に伊勢ケ浜部屋所属の第70代横綱日馬富士関と井筒部屋所属の第71代横綱鶴竜関から計3個の金星を上げる活躍も見せました。しかし、この強みは元々の腕力が強いことに頼っている内容であることから、左膝の半月板を損傷する大怪我を負ってしまい、それ以降は休場を繰り返すなどしたため、十両に陥落する回数も増えており、怪我が完治出来れば幕内で再び活躍が期待される力士の1人ではないかと思います。