境川部屋と親方・関取紹介

元小結両国関が師匠を務める境川部屋とは

現在の境川部屋の師匠は元小結両国関で、引退して5年半後の平成10年夏場所後に当時所属していた出羽海部屋から独立して誕生させました。当時は中立親方だったため、中立部屋としてのスタートでしたが、4年半後に、名前を境川に変更して境川部屋となり現在に至ります。

その境川部屋は足立区舎人に部屋を構えており、周辺には見沼代親水公園やホームセンターがあり、東京都ではあるものの、川を一つ渡れば、ほんの数分で埼玉県内に行くことができます。最寄り駅は日暮里・舎人ライナーの見沼代親水公園駅で、そこから国技館へは最低2回の乗り換えで50分ほどかかるため、少し遠い位置にあります。

現在、境川部屋には幕内力士として大関の豪栄道関、関脇まで昇進した経験のある妙義龍関、父と同じ四股名で活躍している佐田の海関の3人がおり、十両に豊響関の計4人の関取がいます。取的でも、幕下には2年前まで幕内力士として活躍していた佐田の富士関を始め3人、三段目には12人、序二段には5人の計24人の力士が在籍しています。さらに、元小結岩木山関の関ノ戸親方と、元平幕寶千山関の君ヶ濱親方の2人の部屋付き親方が指導に当たっており、呼出1人、床山2人を含めて少なくとも31人が共同生活をしています。

また、境川部屋では朝稽古の見学は事前に連絡をすればできる可能性が高いです。ちゃんこ鍋は、いろんな種類がありますが、ワカメなどの海鮮物がしっかり入った塩ちゃんこ鍋は鶏団子の中にもきくらげなどが入って独特の食感が出ていて、おいしいとの評判があります。ちなみに、ちゃんこのおかずとして焼きそばが出ることもあるそうです。

境川部屋を興した元両国関の紹介

その境川部屋を興した元両国関は昭和37年7月生まれの54歳で、少年時代は柔道だけでなく、ソフトボールやサッカーなどの幅広いスポーツ経験を持ち、中学時代で身長が180cm台に対し、体重が110kgの大柄な体格だったため実力もあり、この体格を活かして高校から相撲を始め、大学に入ってから技や四股などの基本的な技術を身につけて主将を務めたり、全国学生相撲選手権大会で2位に入る実績を残したりしたことから幕下付出の資格を得て複数のスカウトを受けた相撲部屋の中から、同じ長崎県出身で第50代横綱佐田の山関が師匠を務める当時の出羽海部屋に入門し、昭和60年春場所に初土俵を踏みました。

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両国関の強みは先述したような大柄な体格を活かして、廻しを取らずに攻めていく突き押し相撲が取れるだけでなく、右四つに組んでから寄り切ったり、上手から投げたりすることも得意でした。この相撲を活かして入門して丸1年後には関取の座を掴み、そこから丸1年後には新入幕を果たしました。それ以降は大腿部を痛めた影響などで1回十両に落ちたものの、引退するまでの約6年間、幕内の座に定着して、その間に、昭和の大横綱の1人である第58代横綱千代の富士関から3回も金星を取ったり、三賞のうち殊勲賞と敢闘賞を1回ずつ受賞したり、4回も小結を経験したりする実績を残しました。現役を引退後は中立親方として出羽海部屋に残り、後進の指導に当たりました。

花のゴーイチ組として土俵を盛り上げた元岩木山関の関ノ戸親方

現在、境川部屋で部屋付き親方として後進の指導に当たっている1人として元小結岩木山関の関ノ戸親方は昭和51年3月生まれの41歳で、学年としては1つ上ではあるものの、現在、玉ノ井部屋師匠を務めている元大関栃東関や九重部屋師匠を務めている元大関千代大海関などと同じ「花のゴーイチ組」の1人とされています。岩木山関は高校から相撲を本格的に取り組み始め、地元の青森大学卒業後に系列校の先生及び相撲部のコーチの立場としてアマチュア相撲で活躍し、全日本選手権でベスト8の実績を残すなどしたことから、24歳だった、平成12年名古屋場所で当時の中立部屋に幕下付出として入門し、初土俵を踏みプロとして相撲生活を始めました。

岩木山関の強みは廻しを取らないで攻めていく突き押し相撲が取れるだけでなく、左四つに組んだり、双差しになってからの寄り切ったりするなどの寄りや、廻しを取らずに相手を投げて仕留める小手投げも得意にしていました。これらの強みを活かして入門して2年弱の平成14年春場所で関取の座を掴み、入門から2年半後には新入幕を果たすことができました。その場所は11勝の好成績を収めて三賞の敢闘賞を受賞できました。そこから5年間は安定して幕内の番付に定着して活躍していました。特に前半の3年間を中心に幕内上位で活躍し、その間に三賞の技能賞を獲得したり、高砂部屋所属の第68代横綱朝青龍関から唯一の金星を上げたりする活躍を見せ、小結を合計2場所務める実績も残しました。平成22年夏場所前に小脳の脳梗塞という病気が見つかって半年間休場した後、34歳で約10年半に及ぶ現役生活を終えました。引退後は関ノ戸親方として境川部屋に残って後進の指導に当たっています。

関取と取的を交互に経験した元寶千山関の君ヶ濱親方

境川部屋で親方として後進の指導に当たっている、もう1人は元寶千山関の君ヶ濱親方です。寶千山関は昭和57年1月生まれの35歳で、岩木山関と同じく相撲どころで知られている青森県出身ということもあって、少年時代から相撲に打ち込み、高校時代の監督がスポーツ解説者として現在は活躍している出羽海部屋所属の元小結舞の海関と同期で縁があったことから、高校を卒業した平成18年春場所に当時の中立部屋へ入門して初土俵を踏みました。

寶千山関の強みは廻しを取らないで攻めていく突き押し相撲と右四つに組んでから寄り切る等の寄りで、入門から2年後には幕下に昇進したものの、この相反する強みを定めることに苦労した事などから関取の座を掴むまで、さらに丸4年を有しました。そして関取に昇進して1年以内に十両優勝を決めた次の場所である平成18年秋場所には24歳で新入幕を果たしました。そこから2年間は関取の座に定着するほどの実力を示していましたが、糖尿病などの病気の影響で、その後2年間は治療を続けながら土俵に立ち続けていましたが幕下に陥落してしまいました。体調が戻ってからは再び関取の番付に戻り、そこから3年弱の間、幕内3場所を含めて関取に定着して土俵に務めていました。最終的には左肩や腰などの痛みなどで三段目まで下がってしまいましたが、その三段目で7戦全勝の実績を残して平成26年初場所前に現役を引退し、君ヶ濱親方として後進の指導に当たっています。

力士精神が魅力的な浪速の大関である豪栄道関

現在、大関で境川部屋の部屋頭を務めている豪栄道関は昭和61年4月生まれの間もなく31歳で、田子の浦部屋所属の第72代横綱稀勢の里関や春日野部屋所属の栃煌山関らと共に現在、幕内で活躍している力士が多い昭和61年度生まれの、いわゆる「花のロクイチ組」の1人です。豪栄道関は少年時代から相撲一本の生活をしており、小学生のころから隣町にある相撲道場に電車で通って四股やテッポウなどの基礎経験を積み高学年になると、わんぱく横綱に輝くなどの実績を残しました。高校生になると地元の大阪府から埼玉栄高校へ相撲留学してさらに力を高めていき、高校横綱になったり、世界ジュニア相撲選手権大会で優勝したりするなどの高い実績を残し、一時幕下付出の資格が得られるか否かで話題になったほどでした。この力を活かすべく3年生の頃に所属している相撲部の監督との縁で境川部屋での、数日の稽古体験が実現し、卒業前の平成17年初場所に入門して、初土俵を踏みました。ちなみに高校は卒業となっています。

出典: http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile?id=2764

豪栄道の強みは前廻しを掴んでからの引きつけが強いことから、右四つを中心に組んだ後に寄って出たり、出し投げで相手の体勢を崩したりすることです。これに加えて切り返しや外掛けなどの技もでき、先述の四つも左四つでも強みを発揮することがあります。

これらの強みを活かして初土俵から約2年後には関取の座を掴み、そこからほぼ1年経った平成19年秋場所で新入幕を果たしました。この場所は11勝を上げて三賞の敢闘賞を獲得しました。7年前に謹慎で出場停止になった以外は十両に落ちることがなく、ほぼ幕内上位の番付に定着して相撲を取り続けることができ、平成22年初場所には朝青龍関から唯一の金星を獲得したり、三賞は殊勲賞5回を中心に11回も受賞したりするなどの実力を示しました。特に殊勲賞のうち3回は大関への昇進考査期間に当たる半年間に連続して受賞しています。さらに昇進するまでの2年半近くも関脇で連続して勝ち越すなどして定着することができ、先述の考査期間では中間で8勝だったものの、この連続在位などを評価されて平成24年名古屋場所後には28歳で大関に昇進することができました。

しかし、昇進後は左肩を骨折したり、右足関節の靭帯を傷めたりするなどの怪我が多い点や相撲で劣勢の時に逆転を決めることができる可能性ある首投げに頼る内容があった点などから、10勝に届かない場所が多かったり、負け越して複数回カド番を経験したりするなど低迷してしまいましたが、去年の秋場所には30歳で15戦全勝の記録を達成して幕内最高優勝を果たすことができました。

豪栄道関で印象的なのは成績だけでなく、たとえ怪我をしても周囲に一切公言しない昔から当たり前とされている力士の心構えを貫いている点ではないかと思います。これは大関に昇進した際の口上でも、「これから大和魂を貫いて参ります」と述べたほどです。ちなみに同じような力士精神を持っている力士としては追手風部屋所属の遠藤関なども挙げられます。地元である今年の春場所はけがで途中休場してしまいましたが、復帰後の活躍が期待される力士ではないかと思います。

豪栄道関と同期で凌ぎを削っている妙義龍関

妙義龍関は昭和61年10月生まれの30歳で、先述した豪栄道関と同じ昭和61年度生まれで、いわゆる「花のロクイチ組」の1人としても数えられます。また、兵庫県出身ということもあり、豪栄道関と共に関西地方出身で、彼と共に地元の春場所では土俵入りなどの際に現れただけでも歓声が沸くほどです。妙義龍関は少年時代、柔道・水泳・陸上などの幅広いスポーツ経験を有しており、相撲も小学生の頃に地元の相撲教室に通って経験を積んだり、相撲大会に出場したりしていましたが、本格的に始めたのは中学卒業後に上京して埼玉栄高校へ相撲留学してからです。高校時代には3年生の時に団体戦に出場できるほどになり、進学した日本体育大学では4年生の時に国体相撲で優勝する実績を残し、幕下付出の資格を獲得し、複数の相撲部屋からのスカウトの中から、卒業後の平成23年夏場所に境川部屋を選んで初土俵を踏みました。

出典: http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile?id=3206

妙義龍関の強みは身長が190cm近い長身にも拘らず重心を落としながら廻しを取らずに攻めていく押し相撲と右四つに組んでから寄り切る等の寄りで、これを活かして入門から1年以内には関取の座を掴みましたが、この場所中の取り組みで左膝の前十字靭帯を断裂する大怪我を負ってしまい、半年以上も休場してしまうアクシデントに見舞われてしまい、序二段一歩手前の番付まで下がってしまいました。

しかし、復活後は先述した強みを活かした相撲が発揮されて負け越すことなく番付を上げていき、結果的に入門して3年近く経った平成23年九州場所に25歳で新入幕を果たしました。入幕後も勢いは3年ほど継続し、その間に、強みが活かされた内容を評価される形で技能賞を5回受賞したり、宮城野部屋所属の第69代横綱白鵬関と伊勢ケ濱部屋所属の第70代横綱日馬富士関から金星を獲得したりする活躍を見せ、三役を1年近く連続して務めたり、関脇で2回勝ち越すことができたりするほどの実績も残しました。

ところが、3年前に左目の網膜剥離の手術を受けて稽古が十分できなかったことや、逆に相手からの突き押しに対応しづらく、廻しを取られたのちの対応が遅いという弱点が目立ってきたことなどが影響して、最近は幕内の下位に下がってしまうことも出始めていますが、そこからの復帰が楽しみな力士となっています。

父と同じ四股名で土俵に立っている佐田の海関

佐田の海関は昭和62年5月生まれの29歳で、父親は出羽海部屋に所属していて、最終的に田子ノ浦親方として11年間、後進の指導に務めていた元小結佐田の海関です。この影響から少年時代から力士を志していましたが、スポーツ経験は野球のみで、相撲は行ってしませんでした。中学卒業後の平成15年春場所に父親の弟弟子の関係を持つ両国関が興した境川部屋に入門し、初土俵を踏みました。ちなみに父親が協会を退職した時は佐田の海関は小学6年生で、引退した時はまだ1歳でした。

出典: http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile?id=2565

佐田の海関の強みは父親と同じく右四つになってからの寄り切り等の寄りであり、同じ体勢から上手投げや出し投げなどの投げ技を得意としている点が加わっています。この強みなどを活かしてゆっくりと番付を上げて行き、初土俵から約7年半で関取の座を掴むことができ、そこから1年半ほど定着していました。ところが、取り組み中に右足首を脱臼したり、右目の眼底を骨折したりするなどの大怪我を負ってしまい、1場所を全休した後、そこから丸2年間は幕下生活をせざるを得なくなりました。それでも腐らずに土俵を務めた結果、番付を戻していき、入門して11年以上たった平成26年夏場所には新入幕を果たすことができました。さらに、この場所で10勝を上げて三賞の敢闘賞を獲得しました。それ以降は幕内に定着するほどの実力を身につけることができ、入幕して1年後には日馬富士関から金星を獲得することができ、その次の場所には前頭筆頭まで昇進しています。今後は父親と同じ小結に昇進できるかが期待される力士となっています。

平成の猛牛として活躍している豊響関

豊響関は昭和59年11月生まれの32歳で、少年時代は地元の山口県で相撲に打ち込んでおり、高校卒業後は一旦就職していましたが、兄の助言と高校時代に境川部屋からスカウトを受けていた縁から、20歳だった平成17年初場所に自ら志願して境川部屋の門を叩いて初土俵を踏みました。これは大関豪栄道関と同じ場所での入門となりました。

出典; http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile?id=2763

豊響関の強みは廻しを取らずに攻めていく突き押し相撲で、立ち合いにぶちかましてから手をY字型にして相手の喉元を押していくスタイルで同じような強みを持っていた元佐渡ヶ嶽部屋師匠だった第53代琴櫻関に因んで平成の猛牛とも呼ばれているほどです。これらの強みを活かして番付を上げていき、入門して2年後には関取の座を掴み、そこから半年ほどたった平成19年名古屋場所には新入幕を果たすことができました。豊響関も、この場所で11勝を上げて三賞の敢闘賞を受賞しました。入幕してからは、網膜剥離の影響で全休したり、出場停止の処分を受けたりした時期を除いて、ほぼ8年半は幕内の番付に定着するほどの実力を有するようになり、平成24年夏場所には平成の大横綱の1人である白鵬関から金星を上げたり、敢闘賞を3回受賞したりする活躍を見せました。しかし、押し一本で攻める相撲は、勝ち続けると連鎖的に白星を重ねやすくなるというメリットがある反面、この逆も然りであることや、体を預けて突進した際に相手に横方向などに交わされるとバランスを崩して倒れたり、立ち合いにいきなり横に動かれると正面にバッタリと落ちてしまったりするというリスクがあることから、昨年あたりからは幕下と十両の境目の番付で相撲を取っておりますが、相撲内容が突き押しだけでなく、4年前からは、四つに組んでから寄り切る等の内容も取れるようになっており、これを加えた強みで、再び幕内上位で相撲が取れるかが楽しみな力士の1人です。