宮城野部屋と関取紹介

元竹葉山関が師匠を務める宮城野部屋とは

平成の大横綱の1人である白鵬関が所属している宮城野部屋は、今から27年前に現在の師匠である元竹葉山関が部屋を継承して現在に至りますが、一時期、北の湖部屋に所属していた元金親関と師匠を交代した時期もありました。

その宮城野部屋は墨田区八広に部屋を構えており、観光地として有名な東京スカイツリーと旧中川の、ほぼ真ん中に位置しており、明治通りという大通り沿いに部屋があります。同じ墨田区内にある国技館へは最寄りの曳舟駅から京成線や東武線から地下鉄などを用いて最低2回は乗り変える必要があり、少し遠い位置にあることになります。ちなみに1年半前までは同じ墨田区の緑という国技館に近いところに部屋がありました。宮城野部屋に所属している力士は、関取では白鵬関の他に石浦関と元大喜鵬関である山口関の3人と取的の7人を含めて計10人となっています。また、現在行司の最高位を務めている立行司の式守伊之助を始め行司が2人と幕内呼出の隆二、特等床山の床蜂といったベテランの裏方も所属しています。さらに今年の初場所前に元関脇高望山関で18年間高島部屋の師匠を務めた高島親方も部屋付き親方として加わって指導しており、少なくとも17人が共同生活をしています。

現師匠、元竹葉山関の紹介

現在、宮城野部屋の師匠を務めている元竹葉山関は昭和32年8月生まれの59歳で、少年時代は相撲の他に野球も経験していました。父親の知人のスカウトから中学卒業後の昭和48年春場所に第43代横綱吉葉山関が師匠を務める当時の宮城野部屋に入門して初土俵を踏みました。

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竹葉山関は身長176cmに対して体重が120kgしかないソップ型の体格でしたが、立ち合いで廻しを取らずに強く当たって攻める突き押し相撲を強みにしていて、入門して6年弱で関取の座を掴みましたが、組んで責める四つ相撲に苦手があった点などから、幕下上位に落ちて苦戦を強いられ、安定して関取に定着したのは入門して丸11年が経った頃でした。現友綱部屋師匠である元関脇魁輝関との猛稽古などを通じて実力を上げていき、昭和61年秋場所には新入幕を果たしました。ちなみに、これは初土俵から13年半、新十両から丸8年要するスロー出世で、後者は歴代1位の記録となっています。最終的には4年間関取の座を安定的に務め、うち2場所を幕内の土俵で相撲を取る実績を残して、平成元年1月場所に現役を引退して、半年間中川親方として後進の指導に当たった後、先代師匠が死去したことに伴って部屋を継承しました。しかし、その15年後の平成16年名古屋場所に年寄名跡の問題などで先述した元金親関に一時、部屋を譲る形で熊ヶ谷親方として弟子を指導していましたが、4年半後には再び師匠を後退する形で宮城野親方となり、現在に至ります。

平成の大横綱の1人である第69代横綱白鵬関

現在、幕内最高優勝回数が例題ダントツ1位の37回を記録したり、通算勝ち星でも現浅香山部屋師匠を務める元大関魁皇関の1047勝まで30勝を切ったりするなどの大記録を達成し続けていて、平成の大横綱の1人とされている白鵬関は昭和60年3月生まれの32歳です。白鵬関の父親は出身地モンゴル国で行われているスポーツであるモンゴル相撲の横綱で、かつメキシコオリンピックで開催されたレスリングの銀メダリストというスポーツ選手でしたが、白鵬関は少年時代、バスケットボールを中心に経験し、相撲は小学校高学年のときに遊びで行った程度でしたが、それに対する興味は強いものがあり、中学校を卒業して半年後に大島部屋に所属していた元小結旭鷲山関を頼りにして来日し、大阪の企業の相撲部で四股やテッポウなどの相撲の基礎を体得していきました。ただ、身長が170cm台に対して体重が60kgほどしかない小柄な少年だったため、同じように来日して、その企業で基礎を習っていた猛虎浪関が立浪部屋に入門が決定するなど他の6人の入門先が決まっていったのに対して、彼だけオファーがない状態が続きました。タイムリミットが迫った頃に旭鷲山関の当時の師匠だった元大関旭國関が友人だった宮城野部屋師匠に要請して受け入れられたため、入門が決まり、16歳の時の平成13年春場所に角界の門を叩くことができました。ちなみにバスケットボール経験を活かして、プライベートの面において、テレビなどのメディアを通じてバスケットボールの実力を示したり、5年前には拓殖大学の付属校のバスケットボール部の名誉監督に就任したりするなどの活動の幅を広げています。

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白鵬関は、入門した当初の数か月間は先述したような小柄な力士だったため、稽古よりも大量の飲食や稽古を通じての体づくりの方に専念した生活を送っていたため、始めて番付が載った夏場所は負け越してしまいましたが、部屋での稽古が本格的になると、右四つに組み止めてからの左上手投げや寄りに持ち込む強みを手に入れることができたことなどにより、それ以降は順調に番付を上げていき、平成16年初場所には18歳で関取の座を掴み、入門から丁度3年で新入幕を果たすことができました。そして、その場所で12勝を上げて三賞の敢闘賞を受賞する活躍を見せました。関取になって1年も経たないうちに高砂部屋所属の第68代横綱朝青龍関から唯一の金星を上げるなど幕内上位で活躍する実力を示し、21歳の時には関脇で連続13勝の好成績と、うち1場所の優勝同点の成績を収めたことから大関に昇進しました。昇進直後の平成18年夏場所には14勝を上げての初優勝を果たし、あっという間に横綱に上がるのかという期待などから、注目度が高まりました。しかし、取り組み中に右膝を痛めてしまったり、左足を負傷したりして1場所を休場してしまい、ブレーキがかかってしまいました。それでも翌場所には10勝を上げて復活し、大関に昇進して丸1年で2場所連続優勝を果たし、平成19年夏場所後に22歳という若さで、第69代横綱に昇進しました。横綱土俵入りの型は宮城野部屋を興した第43代横綱吉葉山関にならって不知火型を選択し、九重部屋所属の第58代横綱千代の富士関や二子山部屋所属の第65代横綱貴乃花関のような大横綱と言われる力士の多くが選択した雲竜型とは異なる形を取りました。ちなみにこの両者の違いは一回四股を踏んだ後にせり上がる際に、前者が両腕を広げるのに対し、後者は右腕を伸ばして左手を腰に当てる点と綱の結び目が、前者が2つに対し、後者が1つである点の2点となっています。

白鵬関は、横綱に昇進した後も毎場所のように優勝したり、優勝決定戦に残ったりする好成績を残し続けて、順調に優勝回数を重ねていきました。朝青龍関が平成22年春場所前に引退してからは一人横綱という重責を担うことになりましたが、この年に63連勝という立浪部屋所属の第35代横綱双葉山関が記録した69連勝に次ぐ大記録を達成しました。しかも、連勝記録を止められた九州場所で敗れたのが、その1つだけで優勝しています。ちなみに、この連勝記録を止めたのが、今年の春場所から横綱を務める田子の浦部屋所属の稀勢の里関でした。その後も、優勝回数や勝利数を重ね続けた結果、平成27年初場所には昭和の大横綱の1人として知られている、二所ノ関部屋所属の第48代横綱大鵬関の優勝回数である32回を抜き去ったり、去年の九州場所で友綱部屋所属の魁聖関に勝利したことにより通算1000勝を達成したりする大記録を作っています。

白鵬関は今年の夏場所で横綱に昇進してから丸10年がたち、昨年の秋場所を怪我で全休するなど全盛期に比べて白星を重ねる状況を作るのが難しくなりつつありますが、これらの大記録をどこまで伸ばし続けることができるのかを中心に注目と期待が高まる力士であるといえると思います。

小兵力士として幕内の土俵を沸かせる石浦関

幕内力士として活躍している石浦関は平成2年1月生まれの27歳で、相撲の強豪校の1つとして知られており、伊勢ケ浜部屋に所属している大関照ノ富士関や湊部屋に所属している逸ノ城関などを輩出した地元の鳥取城北高校の監督を父に持つこともあり、少年時代から相撲中心の生活をしていましたが、野球や水泳などの他のスポーツも経験しており、特に前者はエースとして活躍するほどの実力を持っていました。相撲の実力は、鳥取城北高校の時に世界ジュニア選手権の軽量クラスで優勝したり、大学2年生の時に全日本選抜大会で好成績を収めたりするほどの実力を持っていました。しかし上級生になると病気を患うなどしたため、相撲から離れて卒業後にオーストラリアに語学留学したり、格闘家の道を目指したりするなど、進路を模索する活動をしていましたが、相撲に戻ることを決意し、高校生の時に白鵬関に知り合った縁から23歳だった平成25年初場所に宮城野部屋に入門して初土俵を踏みました。このように、一旦ブランクが開いた後に入門したケースは他にも錣山部屋で立田川親方として指導している元豊真将関などが挙げられます。ちなみにオーストラリアに留学した間にハリウッド俳優のテストを合格して活動する機会もありましたが、これを辞退したうえで角界の門を叩いたことになります。

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石浦関は3年ほどのブランクがあったものの、入門するまでの間に四股や腕立て伏せなどの基本的な運動と大量のご飯を食べるなどの体重増加などを自主的に務めた結果、幕下上位まで負け越すことなく番付を上げていき、入門して2年後の春場所で関取の座を掴むことができました。その石浦関の強みは右四つに組んでからの下手投げや上手出し投げなどの投げ技ですが、体重が110kg台しかなく、現在の関取では最軽量であることが特徴で、同じく軽量力士で活躍している木瀬部屋所属の宇良関や解説者で有名な元舞の海関のように自分より体格の大きい力士に対して懐に潜り込んで、蹴返しなどの足技を見せたり、八艘飛びをやってみたりするなどの奇襲攻撃を、しばしば行って館内を沸かせていることの方が有名ではないかと思います。このような強みと取り組みスタイルを活かして十両の番付で人気と実力をじっくり蓄えていき、昨年の九州場所で遂に新入幕を果たすことができました。その場所で10勝の好成績を収めて、いきなり敢闘賞の三賞を受賞する活躍を見せました。この春場所で幕内3場所目であり、今後は幕内に定着して横綱や大関と対戦できる幕内上位への昇進できるかどうかなどの期待が高まる力士の1人です。

幕内復帰が期待される山口関

山口関は平成元年5月生まれの27歳で、石浦関と同い年で鳥取城北高校から日本大学までは彼と同じ土俵で力を身につけてきました。それまでの間はラグビーのスポーツ経験から始め、小学校高学年から本格的に相撲の道へ進みました。相撲の実力は石浦関よりも凄く、1年生の時には全国高等学校総合体育大会相撲競技大会を優勝したり、続く日本大学でも国体相撲を制覇したりするなど、20個近い大会を総なめにするほどの実績を残すことができ、佐渡ヶ嶽部屋に所属していた元大関琴光喜関を通じて知り合った白鵬関のスカウトを受けて卒業後の平成24年春場所に幕下付出として宮城野部屋に入門しました。

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山口関の強みは廻しを取らずに攻めていく突き押し相撲で、入門して半年後には関取の座を掴み、四股名として大喜鵬が与えられました。ほぼ1年後の平成25年夏場所では新入幕を果たし、そこからの活躍が期待されていましたが、病気が発覚して治療に専念したり、取り組み中に右脇腹を骨折するアクシデントに見舞われたりしてしまい、1年ほどで関取から陥落してしまいました。一時、三段目まで番付が落ちてしまいましたが、四股名を本名の山口に戻した上で、これらのアクシデントを克服していき、昨年の九州場所には十両に復帰することができました。この次の場所も勝ち越しており、幕内への復帰が期待される力士となっています。