陸奥部屋と親方紹介

元大関霧島関が師匠を務める陸奥部屋とは

陸奥部屋は、当時勝ノ浦親方として井筒部屋で後進の指導に当たっていた元大関霧島関が当時、陸奥部屋の師匠を務めていた元星岩涛関から部屋を譲る形で、平成10年初場所前に継承した後、今から17年前に元青ノ里関が師匠を務めていた立田川部屋を吸収して現在の形になった部屋です。

その陸奥部屋は墨田区両国に部屋を構えており、JR両国駅西口から降りてすぐの位置にあり、周辺にはビジネスホテルや師匠が経営している、ちゃんこ霧島などがあります。国技館にも歩いて行ける距離です。現在、陸奥部屋には幕下力士が2人、三段目力士が4人、序二段力士が5人、序ノ口力士が1人の計12人の取的が所属しており、四股名が与えられている力士の例として霧場山、霧嵐、霧の富士など師匠の四股名である霧島の霧の字が与えられるケースが多いのが特徴です。力士の他にも元薩洲洋関の立田山親方と元敷島関の浦風親方の2人の部屋付き親方が後進の指導に当たっており、呼出と床山が1人ずつと、若者頭を務めている元福ノ里関を含めて少なくとも19人が共同生活をしています。なお、稽古見学は現在できない可能性が高いので注意が必要です。

現在の陸奥部屋の師匠、霧島関の紹介

現在、陸奥部屋の師匠を務めている元霧島関は昭和34年4月生まれの58歳で、少年時代は真冬に水をかぶったり、鉄製の下駄をはいて通学したりするなど、体幹を鍛えることに専念していました。中学生の時に受けたスカウトなどから、中学卒業後の昭和50年春場所に、同じ鹿児島県出身で、井筒3兄弟として知られている現井筒部屋師匠の元関脇逆鉾関や現錣山部屋師匠の元関脇寺尾関の父で、元関脇鶴ケ嶺関が師匠を務める当時の君ヶ濱部屋に入門し、初土俵を踏みました。ちなみに部屋の名前は、3年弱後の昭和53年初場所前に、井筒部屋に変更されています。

出典: http://aganism.com/sumou/ikemen-rikishi/

霧島関は身長190cm近くに対し体重が130kg台の、所謂ソップ型の体型をしていましたが、一般的な真ん丸としているお相撲さんという体型とは正反対ともいえる、筋骨隆々な体型をしているという特徴がありました。この特徴から、「角界のアラン・ドロン」や「和製ヘラクレス」というあだ名がつくほどでした。ちなみに、この体型をしている力士としては同時期に昭和の大横綱と1人として知られている先代九重部屋師匠の第58代横綱千代の富士関などが上げられます。

霧島関は入門してからウエイトトレーニングを行ったり、高たんぱくな食事を積極的に取ったりして、この体を徐々に作り上げていき、左四つの形から前廻しを掴んだり、出し投げを打って崩したりして寄り切るなどの寄りを強みに持つことができました。これに加えて土俵際で、この形から、うっちゃったり、吊り出したりすることも得意としており、決まったときの豪快さで観客が沸くこともあったほどでした。ちなみに、このようなトレーニングや食事などによる肉体作りは、関取になってからも続けられ、このような努力が大関になることができた一因と考えられます。

入門して7年後には関取の座を掴み、一旦陥落して半年後に返り咲いた後は、先日した強みが活かされるようになり、昭和59年名古屋場所に25歳で新入幕を果たし、この場所で三賞の1つである敢闘賞を受賞しました。入幕してからも少しずつ番付を上げるようになり4年後には幕内上位の番付に定着するほどの実力を有するようになり、この間に技能賞を4回獲得するなど、三賞を8回取ったり、現芝田山部屋師匠である第62代横綱大乃国関から2回金星を取ったりする実績を残しました。そして入門して丸15年経った平成2年春場所で初めて13勝を上げて優勝決定戦に進むほどの成績を残し、半年間三役で34勝の好成績を収めたことから、場所後に大関に昇進しました。ちなみにこの場所では敢闘賞以外の三賞も受賞しました。大関昇進後は少ししてから10勝以上の成績を残すようになり、平成3年初場所に14勝の成績で唯一の幕内最高優勝を果たしました。しかし、取り組み中に肘を怪我したり、右足首の靭帯を断裂したりするなどしたため、3年弱で大関から陥落してしまいました。大関から陥落しても、網打ちや内掛けなどの技能的な相撲を発揮して引退するまでの間、幕内の地位に定着することができ、そして平成8年春場所後に丸21年間の現役生活を終え、錣山親方として1年間、井筒部屋に残って後進の指導に当たり、後に勝ノ浦親方に名前を変えた後も同様の活動をしていました。

引退するまで皆勤だった元薩洲洋関の立田山親方

現在、陸奥部屋で部屋付き親方として後進の指導に当たっている1人である元薩洲洋関は昭和32年6月生まれの59歳で、少年時代は柔道中心のスポーツ経験を有しており、相撲は高校に入ってから本格的に始めました。高校3年生の時に同じ鹿児島県出身の師匠である当時の君ヶ濱部屋に入門し、昭和51年初場所で初土俵を踏みました。

薩洲洋関の強みは廻しを取らずに攻めていく突き押し相撲で、当初の右四つに組んでからの強みから変えるのに時間はかかったものの、先述の強みを活かせるようになり、入門してから8年半で関取の座を掴み、その2年後の昭和61年秋場所で新入幕を果たしました。入幕後3年間は幕内に定着するほどの実力を示しており、引退する直前までの16年半の間一度も休まなかったという特徴があります。平成4年秋場所後に現役を引退して立田山親方となり現在に至ります。

平成の大横綱から2回金星を取った元敷島関の浦風親方

もう1人の親方である元敷島関は昭和45年12月生まれの46歳で、少年時代は柔道に打ち込んでいました。知人の紹介から高校卒業前の平成元年初場所に立田川部屋に入門して初土俵を踏みました。

敷島関の強みは左四つに組んでからの寄りで、この強みを活かして入門から4年半ほどで関取の座を掴み、入門して6年後には新入幕を果たしました。現役生活の中で4年間幕内の番付に定着する実力を示し、その間に第65代横綱貴乃花関から2回連続で金星を獲得するなどの実績を残しました。平成13年夏場所中に30歳で現役を引退した後は、暫くこの四股名のまま残っていましたが、11年間の借株生活の中で名前を6回変更して今から4年前に浦風親方として正式に取得して現在に至ります。

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