入間川部屋と親方紹介
元関脇栃司関が師匠を務める入間川部屋とは
入間川部屋は、春日野部屋の部屋付き親方として後進の指導に当っていた元関脇栃司関が引退して1年弱ほど経った平成5年初場所に春日野部屋から独立して誕生させた部屋です。
その入間川部屋は昔の与野市にあたる、さいたま市中央区に部屋を構えていて、周辺には与野公園や首都高速新都心線が走っている幹線道路があり、国技館へは最寄りのJR埼京線の与野本町駅から乗り換え1回で1時間ほどかかり、駅までの距離を含めると、やや遠い位置にあることになります。入間川部屋には現在、幕下に、幕内で相撲を取ったことがある磋牙司がいる他、三段目に6人、序二段に4人の計11人の力士が在籍しており、四股名に師匠の栃司関の「司」がつけられることが多いという特徴があります。さらに元皇司関の若藤親方が後進の指導に当たっており、床山1人を含めて少なくとも15人が共同生活をしています。ちなみに、稽古の一般見学ができる可能性がありますが、事前連絡が必要になります。
現在の入間川部屋の師匠、栃司関の紹介
現在の入間川部屋を興した元栃司関は、昭和33年4月生まれの58歳で、少年時代から運動神経抜群で中学生から相撲を本格的に始め、そこでは全国中学校相撲選手権大会で優勝するほどの実力を示しました。地元愛知県から上京して進学した日本大学では全国学生相撲選手権大会準優勝の実績を残したことが評価され、大学卒業後の昭和56年春場所に第44代横綱栃錦関が師匠を務めている春日野部屋に幕下付出として初土俵を踏みました。
栃司関の強みは立ち合いから廻しを取らずに突進して攻めていく突き押し相撲で、突進だけでなく、その過程からのいなしも得意にしていました。これらの強みを活かして、入門して丸1年で関取の座を掴むことができました。そこから1年間幕下で低迷した時期もありましたが、復帰して引退するまでの9年半の間は関取として定着して土俵を務めていました。昭和58年秋場所には25歳で新入幕を果たし、以降は少しずつ実力を身につけるようなり入幕して2年半ほどすると幕内上位で安定して相撲が取れるようになり、その間に三賞の1つである技能賞を獲得したり、昭和の大横綱の1人である九重部屋所属の第58代横綱千代の富士関から金星を取ったりする実績を残しました。平成に入ると取り組み中に右腓腹筋を断裂するなどの怪我が増えるなどして途中休場が多くなったため十両に下がることもありましたが、平成2年初場所には現八角理事長の第61代横綱北勝海関から金星を上げる活躍をしました。平成4年夏場所中に現役を引退して1年弱の間、入間川親方として春日野部屋に残って後進の指導に当たりました。
丈夫な体で最年長として土俵を務めた元皇司関の若藤親方
入間川部屋で部屋付き親方として後進の指導に当たっている元皇司関の若藤親方は、昭和46年2月生まれの46歳で、少年時代は相撲好きから小学校高学年で相撲を始め、高校時代には国体の団体戦に出場したり、地元兵庫県から上京して日本大学では全日本相撲選手権大会で活躍したりする実績を残しました。これが評価されたことで、大学卒業後の平成5年春場所に入間川部屋に幕下付出として入門し、初土俵を踏みました。
皇司関の強みは師匠と同じく廻しを取らずに攻めていく突き押し相撲で、初めは右四つに組んでから寄り切るなどの寄りを強みとしていて、入門して丸3年で関取の座を掴んだものの、幕下に2回落ちるなどしていました。先述の強みを活かすことで、力を発揮していき、入門して6年半後の平成11年秋場所には新入幕を果たしました。皇司関の特徴としては怪我が少なく、正式に休場したのは入門して半年後に1回のみでした。この事も一因として引退するまでの11年間関取の座に定着して土俵を務め続けたり、引退した平成21年春場所には38歳になっており、当時の関取最年長として相撲を取ることができたりしました。引退後は若藤親方として入間川部屋で親方として活躍しています。