伊勢ヶ濱部屋と親方紹介
第63代横綱旭富士関が師匠を務める伊勢ヶ濱部屋とは
現在、第70代横綱日馬富士関など、6人の関取を抱える名門の1つとして有名な伊勢ヶ濱部屋は、今から丁度24年前の平成5年夏場所前に、元大関旭國関が師匠を務めていた当時の大島部屋で後進の指導に当たっていた、第63代横綱旭富士関が安治川部屋に移動した後に部屋を継承したのがルーツで、その後、平成20年初場所前に名前が伊勢ヶ濱に変更したことに伴って今の部屋の名前になりました。そして4年前に、第56代横綱若乃花関が師匠を務めていた間垣部屋が、2年前には元大関大受関が師匠を務めていた朝日山部屋がそれぞれ閉鎖されたことによって、計15人の力士を受け入れる形で編入して現在に至ります。ちなみに、照ノ富士関は前者の部屋に入門した力士で、若三勝という四股名で相撲を取っていました。
その伊勢ヶ濱部屋は江東区毛利に部屋を構えており、周辺には猿江恩賜公園や大横川などの自然施設があり、首都高速の錦糸町インターと四つ目通りの近くに位置しています。国技館へは最寄りの住吉駅から3通りの行き方ができますが、いずれも乗り換え1回で凡そ20分程度で行くことができます。ちなみに現在部屋は改修工事中であり、その間は同じ江東区の千田に移転しており、東京都現在美術館と大型ショッピングセンターの丁度中間に位置しており、最寄り駅は同じですが、そこまでの距離が以前より長くなっています。
伊勢ヶ濱部屋には、先述した日馬富士関を始め、大関の照ノ富士関、関脇まで昇進したことがある宝富士関の3人が幕内で活躍います。十両には誉富士関・安美錦関・照強関の3人が土俵を取っており、この他に幕下には駿馬、三段目には富栄を始め8人、序二段には9人、序ノ口には9人の取的が所属しており、計33人の力士が在籍していることになります。力士の四股名の特徴としては先述した関取以外にも弓取りを務めている聡ノ富士や錦富士のように「富士」の文字が付けられたり、照ノ花や照道のように「照」の文字が付けられたりすることが多い傾向があり、前者は師匠の旭富士関の四股名から、後者はその前に存在していた伊勢ヶ濱部屋の伝統的なものからそれぞれ、つけられたと考えられます。ちなみに、先述した三段目力士の富栄は今から2年ほど前に稽古中にバク転を複数回して話題になったこともありました。さらにネット上にラップ調のリズムネタで一世を風靡したお笑い芸人のラップに合わせてバク転をしたり、人気歌手の替え歌で笑いを誘ったりする動画を公開するなどしていました。
伊勢ヶ濱部屋には力士以外にも、元小結黒瀬川関の桐山親方と、世話人として元前頭斎須関と元十両陸奥北海関の計3人が後進の指導に当たっており、裏方職として行司が1人、呼出が幕内格のベテランを含めて3人、床山も一等格のベテランを含めて2人も所属しているため、少なくとも43人が共同生活をする大所帯となっています。なお、稽古見学は後援会に入会しないとできない仕組みになっているので注意が必要です。
このような大所帯の伊勢ヶ濱部屋を支えている、おかみさんは旭富士関が大関の頃に結婚し、銀座の画廊として働いた経歴を持っています。ちなみに元春日山部屋の師匠を務めていた大昇関の姪にあたります。また、ちゃんこ鍋は定番の味噌味や塩味の他にもカレー味やニンニク味噌味など独特のちゃんこ鍋もあるほかに、お茶漬けや湯葉のしゃぶしゃぶもあるなどバライティが豊富になっているという特徴があります。
現在の伊勢ヶ濱部屋の師匠、旭富士関の紹介
現在、伊勢ヶ濱部屋の師匠を務めている元旭富士関は昭和35年7月生まれの56歳で、少年時代から相撲中心の生活をしており、その実績は高校時代に参加した国民体育大会の少年部の団体優勝をするほどでした。高校卒業後は地元の青森県を出て一旦は近畿大学の相撲部に入りましたが2年生で中退をした後、地元に帰って漁師として働いていました。その後、相撲部屋の見学と旭國関の複数回のスカウトなどから、角界入りを決断し、20歳で昭和56年初場所に上京して大島部屋に入門し、初土俵を踏みました。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E6%AD%A3%E4%B9%9F
旭富士関の強みは懐が深い体格を活かした右四つに組んでから寄り切ったりする寄りと、すくい投げで、これらの強みを活かして負け越すことなく番付を上げていき、入門して1年強で関取の座を掴み、そこから丁度1年後の昭和58年春場所には新入幕を果たしました。入幕後は直ぐに幕内の番付に定着して土俵を務め続け、その年中に小結まで昇進することができ、1年半ほどすると幕内上位の地位で相撲が取れるようになりました。さらにバーベルトレーニングなどの筋肉トレーニングを取り入れたことなどで実力が、さらに身に付くようになり、三役の地位でも10勝以上の2桁の成績を残せるようになりました。その間、三保ヶ関部屋所属で昭和の大横綱と知られている第55代横綱北の湖関と立浪部屋所属の第60代横綱双羽黒関の2人から金星を上げたり、技能賞5回など、三賞を計9個も獲得したりする実績を残しています。そして27歳だった昭和62年秋場所後に、三役で合計33勝の成績を上げたり、三賞を4個獲得したりする成績が評価されて大関に昇進しました。
大関に昇進してから1年半の間は10勝以上の成績を安定して残せる実力を示すことができ、大関に昇進して僅か2場所後の昭和63年初場所には14勝の成績を上げて自身初の幕内最高優勝を果たすことができました。その後も2回も優勝決定戦に進出することができ、少なくとも3回の横綱昇進の挑戦権があったことになります。ところが、その後、膵炎などの持病を悪化させて治療に専念せざるを得なかったことなどから、途中休場などの休場はしなかったものの、成績が低迷してしまいました。それでも、この病を直した結果、元の実力を示すようになり、30歳になった平成2年名古屋場所で14勝の好成績で連覇を果たして、遂に第63代横綱に昇進することができました。横綱土俵入りの型は所属した部屋が当時、立浪一門だったことから、この伝統に従って不知火型を選択しました。ちなみに現在平成の大横綱の1人として活躍している宮城野部屋所属の第69代横綱白鵬関も同じ理由で不知火型を選択したとされており、横綱土俵入りの指導をしたのが、この旭富士関でした。さらに、弟子で横綱に昇進して活躍している第70代横綱日馬富士関も不知火型を選択しています。
また、旭富士関が平成に入って最初の横綱となるので、今年誕生した田子ノ浦部屋所属の稀勢の里関が平成時代10人目の横綱となります。
横綱に昇進してからも10勝以上の成績を残すことができ、昇進してから1年後の平成3年夏場所には14勝を上げて横綱唯一の幕内優勝を果たしました。しかし、その後は先述した持病が再発したり、脊椎分離症による激痛が起こったりした事などから途中休場と全休をせざるを得なくなりました。そして平成4年初場所中に31歳で現役を引退しました。
現役引退後は、横綱だったため旭富士親方として、大島部屋に残って後進の指導に当たることができ、それに務めていましたが、その年中に、同じ故郷で世話になったことがある、元関脇陸奥嵐関が師匠を務めていた安治川部屋に移動しました。そして半年後に部屋を継承して安治川親方として部屋持ち親方としての仕事をスタートさせました。
旭富士関は部屋の師匠としての顔の他にも先述したように技能賞を複数回していることかどから、大相撲中継や以前放送されていたダイジェスト番組での解説の内容が的確であるという評判があったり、特に弟子に対して厳しい解説になっていたりする特徴があり、現在は、前者で毎場所1回程度、幕内の土俵の解説を担当することが多くなっています。また、10年ほど前までは弟子に対して廻しの切り方などの実践的な技術指導も行っていました。
先述したように名前も約10年前に今の伊勢ヶ濱親方に変えて、現在に至ります。
師匠として元幕内徳瀬川関らを育てた元小結黒瀬川関の桐山親方
現在、伊勢ヶ濱部屋で親方として後進の指導に当たっている元黒瀬川関の桐山親方は、昭和26年5月生まれの65歳で、昨年定年を迎えたものの、参与の立場として引き続き親方を務めています。黒瀬川関は怪我をした腰を直す目的などで、地元の東京都東村山市から、中学2年生だった昭和41年初場所に、第38代横綱照国関が師匠を務める当時の伊勢ヶ濱部屋に入門して初土俵を踏みました。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%80%AC%E5%B7%9D%E5%9C%8B%E8%A1%8C
黒瀬川関の強みは左四つに組んでから寄り切るなどの寄りで、この強みを少しずつ実践で身につけて行き初めて番付に名前が載ってから丸10年が経った昭和51年夏場所で関取の座を掴み、その2年後の夏場所には27歳で新入幕を果たしました。入幕後は、左膝の怪我などで半年間十両に落ちた時期もありましたが、ほぼ4年間幕内の番付に定着する実力を有するようになり、特に昭和55年には花籠部屋所属の第54代横綱輪島関と武蔵川部屋所属の第57代横綱三重ノ海関の2人から金星を3個獲得したり、小結まで番付を上げたりする活躍を見せました。幕内で最後に相撲を取った1年半後の昭和59年夏場所中に33歳で現役を引退し、千賀ノ浦親方として1年弱ほど部屋に残って後進の指導に当たった後、現在の桐山親方に名前を変えて本格的に伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方としての活動が始まりました。その10年後には、元関脇高鐵山関が師匠を務めていた大鳴戸部屋を引き受ける形で、伊勢ヶ濱部屋から独立して桐山部屋を興しました。この12年後には、伊勢ヶ濱部屋自体を吸収して所帯を増やし、その中から、モンゴル出身の徳瀬川関が幕内まで昇進するなどの師匠としての実績を残しましたが、所属する力士の数が少なくなったことなどから、15年ほど続いた部屋を閉鎖して、朝日山部屋の部屋付き親方として活動した後、伊勢ヶ濱部屋に移って現在に至ります。