佐渡ヶ嶽部屋と親方紹介
元琴ノ若関が師匠を務める佐渡ヶ嶽部屋とは
元関脇琴ノ若関が師匠を務めている佐渡ヶ嶽部屋は、戦前の昭和10年代から戦後の昭和20年代にかけて活躍した元小結琴錦関が今から62年前に現役を引退してから暫くは佐渡ヶ嶽親方として後進の指導に当たっていましたが、程なくして当時、元関脇玉ノ海関が師匠を務めていた名門の二所ノ関部屋から独立して誕生させたのが起源とされており、部屋を興して凡そ20年後に琴錦関が亡くなってからは白玉親方として、部屋で指導をしていた第53代横綱琴櫻関がこれを継承しました。そして、琴櫻関が12年前に定年退職したことに伴って、現在の琴ノ若関が、そのまま継承して現在に至ります。ちなみに部屋の女将さんは琴櫻関の長女であり、現役で活躍していた琴ノ若関と部屋を継承する10年ぐらい前に婿入りという形で結婚したことから、後継者になったとされています。
その佐渡ヶ嶽部屋は千葉県松戸市内の住宅街の中に部屋を構えており、周辺にはコンビニが多く点在しています。また、同じ千葉県の市川市や鎌ヶ谷市の境に近い所に位置しており、国技館へは最寄りの北総線松飛台駅から乗り換え1~2回で、凡そ1時間程度かかり、若干遠い位置に存在しているのではないかと思います。
佐渡ヶ嶽部屋には現在、大関として5年間活躍した琴奨菊関と若手の琴勇輝関の2人が幕内で活躍しており、十両には琴恵光関を含め3人の関取が所属しています。また、取的力士して、幕下には5人、三段目には16人、序二段には9人、序ノ口には6人がおり、計39人の力士が所属する大所帯の部屋となっています。力士の四股名には必ず、「琴」の一字が先頭につく決まりになっている為、四股名を見たり聞いたりしただけで佐渡ヶ嶽部屋に所属していると分かるのではないかと思います。ちなみに、これは半世紀前から続く習わしとされており、由来は先述した部屋の創設者である琴錦関の地元である香川県にある琴弾八幡宮にあるという説があります。なお、力士以外にも行司、床山、呼出が各2人、部屋で力士を指導しているベテランの親方が3人、さらにはベテランの若者頭を務めている元前頭琴千歳関や元三段目力士の琴大仙を含む、ベテランのマネージャー2人も所属しており、少なくとも53人が共同生活をしています。なお、佐渡ヶ嶽部屋では稽古見学は数年前まで一般公開されていましたが、現在は後援会に入会しないとできない仕組みになっています。ただし、希に一般客でも認められる日があり、ホームページなどで確認したうえ、電話で連絡を入れた方が良いと思います。
ちなみに佐渡ヶ嶽部屋のちゃんこ鍋は色々ありますが、伝統的に引き継がれているものの具体例として、豆腐と卵をベースにした湯豆腐ちゃんこは豆腐以外にも野菜と鶏肉が加わって、濃厚なタレをかけて頂くものであり、具材だけでなくタレがおいしいという評価があります。また、塩胡麻油ちゃんこ鍋は鶏もも肉やソーセージを主菜として、油揚げや豆腐、白滝といったすき焼きに使われることが多い具材を使っており、胡麻油の香りとコクのある味が特徴的です。これらは、いずれもテレビなどのメディアでも取り上げられるほどの人気メニューとなっています。これらのちゃんこ鍋は後援会に入ればチャンコ会食として本場所開催中を除いて食べる機会があり、先述した例の他にも一般的なうどんすきに近い具が入っている、そっぷ炊きや豚肉とキムチがたっぷり入ったキムチ鍋などのちゃんこがあります。ちなみに似たような仕組みにファンクラブへの入会もできますが、扱いは異なり、これらの機会も得られる可能性が低いので注意が必要です。
佐渡ヶ嶽部屋の師匠、元関脇琴ノ若関の紹介
現在、佐渡ヶ嶽部屋の師匠を務めている元琴ノ若関は昭和43年5月生まれの49歳で、少年時代は柔道や陸上の砲丸投げを中心としたスポーツ経験があり、実力は共に県レベルの大会で活躍するほどでした。中学時代に当時師匠を務めていた琴櫻関の熱烈なスカウトに応じる形で、卒業後の昭和59年春場所に地元山形県から上京して佐渡ヶ嶽部屋に入門しました。ところが新弟子検査で健康診断のテストで不合格になったことなどから、翌夏場所に16歳で初土俵を踏みました。
琴ノ若関の強みは身長190cm台、体重180kg台の、所謂あんこ型の体で右四つに組んでから寄り切ったり、左の上手から投げたりすることで、これらの強みを活かして少しずつ番付を上げていき、入門して6年余りで関取の座を掴み、それから約半年後の平成2年九州場所には22歳で新入幕を果たしました。ちなみに入門して4年弱は本名に基づいた四股名で相撲を取っていましたが、幕下時代の昭和63年春場所から琴の若に名前に変えてからは引退するまでの18年弱は琴乃若や琴ノ若と漢字を変えているものの、「ことのわか」として相撲を取っています。
琴ノ若関は入幕して引退するまでの15年にわたって安定的に幕内の番付に定着して相撲を取るほどの実力を有しており、先述した強みは、1分以上などの長時間の取り組みになった際にスタミナの強さなどから発揮されることが多いという傾向があり「ミスター1分」と呼ばれて有名になったこともありました。
特に入門して9年が経った頃に、三役の番付である小結に昇進して以降、取り組み中に腰椎を捻挫して1回途中休場したことはありましたが、幕内上位の番付で6年半ほど相撲が取れるようになり、その間に三賞の一つである敢闘賞を3回獲得したり、関脇を連続して務めることができたりする活躍を見せました。特に28歳だった平成8年名古屋場所では、東関部屋所属の第64代横綱曙関と、平成の大横綱の1人である二子山部屋所属の第65代横綱貴乃花関の2人から金星を上げた上、三賞の殊勲賞を獲得する実力を見せました。ちなみに先述したように、この頃に現在の女将さんになる琴櫻関の長女と結婚して部屋の次期師匠として内定を得る形となりました。金星は、この期間に6個も獲得しており、一時は三役の地位に定着して次期大関候補に挙げられたこともありました。ところが、21世紀に入った頃から取り組み中に左膝の前十字靱帯や半月板を傷めたり、上腕二頭筋を断裂したりする怪我を負って途中休場したり、休場に追い込まれたりするなどしたため、安定して幕内上位で相撲を取ることが難しくなってしまいました。それでも35歳だった平成15年には高砂部屋所属の第68代横綱朝青龍関から2回金星を獲得したり、翌年には敢闘賞を2回獲得したりする活躍を見せました。37歳だった平成17年九州場所の終盤に琴櫻関が定年退職をし、部屋を継承することから現役を引退し、そのまま佐渡ヶ嶽部屋の師匠職を引き継ぐことになりました。一時、師匠を務めながら現役の力士として土俵に立ち続けることができる二枚鑑札が適用される可能性もありましたが、戦後に適用されたのは栃若時代として昭和30年代の角界を盛り上げた春日野部屋所属の第44代横綱栃錦関1人だけで、ハードルが高かったことが一因で実現には至りませんでした。琴ノ若関は師匠としてだけでなく、相撲協会の協会員としては委員の地位として活躍しております。
また、平成27年九州場所には少年時代から相撲での生活中心で、高校生の時に国体などで活躍するなどの実績を残したこともある長男が高校卒業直前で、佐渡ヶ嶽部屋に入門し、本名の琴鎌谷として土俵に立っており、身長186cmに対して体重150kg近い恵まれた体格で番付を順調に上げています。入門して丸1年で幕下に昇進することができ、それ以降はほぼ幕下に定着する実力を有しており、今年の夏場所では自己最高位に近い番付で勝ち越して、次の場所では幕下の中位に初めて昇進する可能性があります。そして、近いうちに幕下15枚目以内の所謂、幕下上位5番に登場し、その先の関取に昇進して角界の歴史の中では珍しいとされている親子3代関取として活躍できるかが期待される10歳代の若手力士の1人となっています。
大器晩成型で活躍し、頭髪の薄さで有名だった元小結琴稲妻関の粂川親方
現在、佐渡ヶ嶽部屋で後進の指導に当たっている親方は他に3人おり、このうち、元琴稲妻関の粂川親方は昭和37年4月生まれの55歳で、少年時代は特筆するようなスポーツ経験はありませんでしたが、中学卒業後の昭和53年春場所に、琴櫻関からのスカウトを受けて地元群馬県から上京して佐渡ヶ嶽部屋に入門し、初土俵を踏みました。
琴稲妻関の強みは廻しを取らずに突き出したり押し倒したりすることと、右四つに組んだ後に左の廻しを掴んでから、寄り切ったり、左から上手投げなどの投げで仕留めたりすることです。また、体を前方に引いたのち、左から肩を叩いて仕留める肩すかしなど技術的な相撲も得意にしていました。先述のように殆ど相撲が未経験だったにもかかわらず、これらの強みを少しずつ活かせるようになり、入門して7年余りで関取の座を掴み、それから2年半後の昭和62年九州場所には25歳で新入幕を果たしました。入幕後5年ほどは取り組み中に右足首の靭帯を断裂したり、左の腓腹筋を傷めたりする怪我を負って途中休場した事などから十両の番付で相撲取ることもありましたが、これらを克服してから6年間は安定して幕内の地位に定着して相撲を取ることができる実力を有するようになりました。特に32歳で迎えた平成6年秋場所に、当時、優勝争い筆頭格だった二子山部屋所属の大関貴ノ浪関と後の第66代横綱若乃花関を破ったことで三賞の1つである殊勲賞を獲得して以降、幕内上位として活躍することもあり、1年後には敢闘賞としてもう一回三賞を獲得し、その次の場所には33歳で新三役に当たる小結を1回経験することもできました。このことから琴稲妻関は、まさに大器晩成型の力士であると言えるのではないかと思います。ちなみに、痛風の治療などから髪の毛が薄い力士として有名であり、現在活躍している力士では、共に十両ではありますが、ベテランという観点では山響部屋所属の北太樹関、若手の中では大嶽部屋所属の大砂嵐関などが挙げられます。
しかし30歳代後半になると成績が低迷するようになり平成11年名古屋場所後に37歳で現役を引退し、粂川親方として佐渡ヶ嶽部屋に残って親方としての生活をスタートさせました。部屋付き親方としてだけでなく、協会職員として勝負審判を経験するなどのベテラン親方となっています。
30歳代で入幕した琉球出身力士である元琴椿関の白玉親方
元前頭琴椿関の白玉親方は昭和35年12月生まれの56歳で主なスポーツ経験はなかったものの、中学卒業後の昭和51年春場所に琴櫻関からのスカウトに応じる形で地元沖縄県から上京して佐渡ヶ嶽部屋に入門し、初土俵を踏みました。
出典: http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=1311&l=j
琴椿関の強みは右四つに組んでから寄り切ったり左の上手から投げたりすることであり、これらの強みを少しずつ活かしていき、入門して10年弱で関取の座を掴むことができました。その後4年近くは幕下での取り組みが続きましたが、関取に定着する実力を少しずつ身につけることができ、入門して15年近くが経った平成3年初場所に30歳で新入幕を果たしました。入幕後2年間は安定して幕内力士として土俵に立つことができ、前頭3枚目など幕内上位での取り組みも数場所ほど経験することができました。その後は、取り組み中に右膝の関節を捻挫したり、外側側副靱帯を傷めたりして途中休場するなど十分な相撲を取ることが難しくなってしまいました。そして34歳だった平成7年春場所後に19年間の現役生活を終えて白玉親方として佐渡ヶ嶽部屋に残って後進の指導を始めました。ちなみに、この当時は借株で、14年前から2年ほど山分親方に名前が変わりましたが、その後は正式に取得した上で、元の白玉親方に名前が戻って現在に至ります。
複数回にわたる復活を経験した元五城楼関の濱風親方
元前頭五城楼関の濱風親方は昭和48年8月生まれの43歳で、少年時代は剣道と柔道のスポーツ経験を持っており、両方とも段位を持つ実績がありました。高校2年生だった頃に当時、間垣部屋の師匠を務めていて、大関まで若三杉関として昭和50年代の土俵を盛り上げた第56代横綱若乃花関からのスカウトに応じることになり、高校を中退した上で、平成元年九州場所で間垣部屋に入門し初土俵を踏みました。
出典: http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=22&l=j
五城楼関の強みは左四つに組み止めてから寄り切るなどの寄りや、身長190cmに対して体重160kg近い体格を活かして廻しを取らずに突いたり押したりして攻めていくことであり、相撲経験はなかったものの、これらの強みを徐々に活かして番付を上げていき、入門して2年ほどで幕下に昇進することができました。怪我の影響などで半年以上休場してしまったものの、復活後に全勝を繰り返して半年以内に幕下に戻ることができました。それから、1年半ほど経った平成7年名古屋場所で関取の座を掴むことができ、入門して7年半近くになる平成9年春場所に23歳で新入幕を果たしました。ちなみに今の四股名になるまでに若仙竜など4回も変えており、先述した怪我から復帰した場所で落ち着く形になりました。五城楼関は入幕後、1年半ほど安定して幕内の番付に定着し、前頭3枚目など幕内上位の番付で相撲を取ることもできました。しかし、その後は取り組み中に大胸筋の肉離れの怪我を負って途中休場したり、全休してしまったりしたため、再び1年ほど幕下に陥落してしまいましたが、これを克服し、1年以内で幕内に返り咲くことができました。最終的に32歳だった平成17年九州場所中に現役を引退し、この四股名のまま間垣部屋に残って後進の指導に当たりました。その1年後には浜風親方に名前を変え、その丁度1年後に今の佐渡ヶ嶽部屋に転籍して現在に至ります。ちなみに名前は、この4年後に現在の濱風親方に変更されています。