時津風部屋と親方・関取紹介
元時津海関が師匠を務める時津風部屋とは
元前頭時津海関が師匠を務めている時津風部屋は、昭和の大横綱の1人として最多連勝記録である69連勝を成し遂げるなどして活躍した第35代横綱双葉山関が今から76年前に元小結緑嶌関が師匠を務めていた当時の立浪部屋から独立して誕生された双葉山道場がルーツであり、昭和48年12月に双葉山関が死去したことによって第42代横綱鏡里関を経て、元大関豊山関が正式に継承しました。平成14年秋場所前に豊山関が定年退職した後は元小結双津竜関が継承したものの、この5年後に部屋の問題などで退職した後に時津海関が現役を引退する形で継承して現在に至ります。
その時津風部屋は、東京都墨田区の両国界隈に部屋を構えており、周辺には昔の両国国技館があった回向院や両国駅があり、隅田川と国道14号線の近くに位置しています。この為、国技館へは徒歩5分ほどで行くことができ、他にもこの周辺には相撲部屋が集中しているという特徴があります。現在、時津風部屋には、前頭に正代関と豊山関の2人が活躍しており、幕下には関脇を務めた事のある豊ノ島を含めて4人、三段目には3人、序二段には3人、序ノ口には2人の計14人の力士が在籍しています。
なお、豊ノ島は昭和58年6月生まれの33歳で、少年時代はサッカーと相撲を経験しており、小学校低学年までは前者が中心でしたが、後者も出場した大会の団体優勝に貢献するほどの実力を有していました。高校卒業直前の15年前に父親の知人が後援会の会長を務めていた事などの縁から地元高知県から上京し、時津風部屋に入門し初土俵を踏みました。強みは、左四つに組んだり双差しになったりしてから攻める事であり、そこから寄り切ったり、差した手から投げたりすることもできました。これらの強みは今年1月末に亡くなった元間垣親方の元小結時天空関との稽古などで強化されたものであり、番付を徐々に上げて、昨年までの12年間は幕内を中心に関取として安定した成績を収めていました。その間に平成の大横綱の1人である宮城野部屋所属の第69代横綱白鵬関などから合計4個の金星を獲得したり、殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三種類の三賞を全て、合計10回も受賞したりする実績を残しています。また、昨年春場所には関脇の地位で相撲を取るなど三役の地位も実質2年程度務めていたこともあり実力者の1人として活躍していましたが、左のアキレス腱を断裂する大怪我の影響などで休場が続いたため、現在は幕下で相撲を取っています。
なお、時津風部屋には力士の他にも呼出と床山が1人ずつおり、後者はベテランになっています。また、師匠の他に若手からベテランまでの3人の部屋付き親方が力士を指導しており、少なくとも19人が共同生活をしています。なお、時津風部屋のちゃんこ鍋は色々ありますが、一部ではテレビなどのメディアに紹介されたものもありました。定番なものとしては鶏団子のそっぷ炊きがあり、これは鶏団子に山芋と鶏軟骨が入っていることから、ふわふわとこりこりの2つの食感を味わえるという特徴があります。他の具材は豚汁に入っているものが多くなっています。なお稽古見学は春場所や九州場所などの地方場所では、できる可能性が高いですが、東京の本場所では事前に可能か否かを連絡した方が良いと思います。
時津風部屋の師匠、元時津海関の紹介
現在、時津風部屋の師匠を務めている元時津海関は昭和48年11月生まれの43歳で、少年時代は相撲だけでなく野球と柔道のスポーツ経験を持っていましたが、高校生になってからは相撲に専念するようになりました。その実力は高校卒業後に地元長崎県から上京して入学した東京農業大学において全国大会で活躍し、アマチュア相撲の強豪企業への就職を父親などから勧められたほどでした。この実力が評価される形で、卒業後の平成8年春場所に元大関豊山関が師匠を務めていた当時の時津風部屋に幕下付出として入門し、初土俵を踏みました。
出典: http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=50&l=j
時津海関の強みは、右四つの形に組み止めてから寄り切ったり、左の上手を掴んでから引きつけて出し投げを打ったりすることであり、捻って相手の重心を崩すことも得意にしていました。これらの強みを活かして番付を上げていき、入門して1年ほどで関取の座を掴み、入門2年半後に当たる平成10年秋場所には24歳で新入幕を果たしました。入幕後7年間は安定して幕内の番付に定着するほどの実力を有しており、特に先述したような強みを評価される形で三賞の1つである技能賞を4回も獲得したり、年に2場所ほどのペースで幕内上位の番付で相撲を取れたりする活躍を見せました。その後は取り組み中に左大腿部筋や右膝の外側側副靱帯などを怪我して途中休場したり、十両に陥落したりすることも増えてきましたが、直ぐに復帰することができました。先述したような出来事から33歳だった平成19年九州場所前に急遽現役を引退し、時津風部屋を継承する形で後進の指導に当たり現在に至っています。ちなみに、現在、相撲協会の職員としても審判の1人として活躍しています。
柏戸関が興した鏡山部屋で基礎を築いた元蔵玉錦関の武隈親方
時津風部屋でベテランの親方として後進の指導に当たっている元前頭蔵玉錦関の武隈親方は昭和27年9月生まれの64歳で、間もなく定年を迎えます。蔵玉錦関は少年時代から体格面で優れており、陸上・柔道・水泳など幅広いスポーツを経験していました。さらに学業でも高校生の時に数学や英語などが得意だったこともあり、まさに文武両道な生活を送っていました。高校3年生だった昭和45年秋場所に、知人が昭和の大横綱の1人である二所ノ関部屋所属で第48代横綱大鵬関と一時代を築いた第47代横綱柏戸関の後援会の会員だったことなどから受けたスカウトに応じる形で地元の山形県から上京し、柏戸関が所属していた当時の伊勢ノ海部屋に入門して初土俵を踏みました。ちなみに、この時の師匠は元前頭筆頭の柏戸関であり、過去に何人も、この四股名を名乗っていることから柏戸は伊勢ノ海部屋では伝統の四股名とされています。
出典: http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=4111&l=j
蔵玉錦関の強みは左四つに組んでから寄り切るなどであり、この強みを活かして番付を上げていき、入門して5年ほどで関取の座を掴み、それから1年半程度経った昭和51年九州場所には24歳で新入幕を果たしました。ちなみに入門して直ぐに先述した横綱柏戸関が興した鏡山部屋に移り、元前頭小沼関と共に部屋で最初の十両力士として当時話題になりました。蔵玉錦関は入幕後、2年ほどは十両で相撲を取ることが多かったですが、3年間安定して幕内に定着した時期もあり、その間に前頭筆頭まで番付を上げたり、昭和の大横綱の1人である三保ヶ関部屋所属の第55代横綱北の湖関から金星を上げたりする活躍を見せました。30歳だった昭和58年初場所後に現役を引退し、立川親方として鏡山部屋に残って後進の指導に当たっていました。今から15年前に、枝川親方の頃に時津風部屋に移りました。借株だったため3年半前に武隈親方になるまで名前が7回変わりましたが、正式株を取得したことで、安定的な地位を得て現在に至ります。
平成の大横綱貴乃花関から2回金星を取った元蒼樹山関の枝川親方
時津風部屋で中堅の親方として後進の指導に当たっている元前頭蒼樹山関の枝川親方は昭和45年2月生まれの47歳で、少年時代は野球中心のスポーツ経験を持っていました。中学卒業後の昭和60年春場所に地元滋賀県から元大関豊山関が師匠を務めていた頃の時津風部屋に入門し、初土俵を踏みました。
蒼樹山関の強みは廻しを取らずに突っ張ったり押したりして攻めていくことであり、相撲経験は少なかったことなどから、この強みを少しずつ活かす形で番付を上げていき、入門して7年弱で関取の座を掴み、入門後丸8年経った平成5年春場所に23歳で新入幕を果たしました。入幕して3年ほどは勝ち越すことができずに十両で相撲を取ることが多かったのですが、20歳代後半に入った頃から5年間安定して幕内の番付で相撲を取ることができました。このうち4割ほどは前頭筆頭など幕内上位まで番付を上げることができ、二子山部屋所属で平成の大横綱の1人である第65代横綱貴乃花関から2個の金星を獲得したり、三賞の1つである敢闘賞に輝いたりする実績も残しました。しかし、その後は取り組み中に、右のアキレス腱を断裂したり、右膝の靭帯を傷めたりするなど怪我を負って途中休場をするなどして皆勤で土俵を務めることが難しくなり、33歳だった平成15年九州場所中に現役を引退し、枝川親方として時津風部屋に残り、部屋の稽古の指導に当たる形で現在に至ります。協会員としても5年前から審判を務めているため、テレビの中継の際にその様子を見られる可能性があります。
大怪我を乗り越えて三段目からカムバックした元土佐豊関の佐ノ山親方
時津風部屋で若手の親方として後進の指導に当たっている、元前頭土佐豊関の佐ノ山親方は昭和60年3月生まれの32歳で、生年月日は平成の大横綱として活躍している宮城野部屋所属の第69代横綱白鵬関と1日違いです。土佐豊関は少年時代から相撲中心の生活を送っており、その実力は高校生の時に高校横綱に輝くほどでした。卒業後には地元高知県から上京して大学の相撲部で実力をさらに磨いていきました。大学を卒業した平成19年春場所に双津竜関が師匠を務めていた頃の時津風部屋に入門して初土俵を踏みました。
出典: http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=7115&l=j
土佐豊関の強みは右四つに組んでから左も指してモロ差しの体勢になってから寄り切ったり吊り出したりすることであり、左の上手を引いてからそのまま上手投げを打つことも得意にしていました。これらの強みが直ぐに活かされる形で番付を急速に上げていき、序二段から全勝で各段優勝を重ね続けるなどの実力を見せることができたことで、入門から丸1年で関取の座を掴み、十両で1年間定着して活躍した後、平成21年名古屋場所には24歳で新入幕を果たしました。入幕後2年間は安定して幕内の番付に定着して相撲を取ることができ、前頭筆頭など数場所を幕内上位まで上がって活躍したこともありました。ところが取り組み中に左膝の前十字靱帯や左膝外側半月板を痛める大怪我を負って、途中休場をしたり全休をしたりするなどして土俵に立つことが難しくなったころからは成績が低迷し、一時、序二段に近い三段目の番付まで下がってしまいました。しかし、腐らずにリハビリを熟すなどして怪我を克服し、28歳で迎えた平成25年春場所で復活することができ、それから1年余りで再び関取の座に戻ることができ、30歳目前の平成27年初場所には丸3年ぶりに幕内の番付に返り咲くことができました。この最低地位からの再入幕は史上初めての記録として現在も残っています。しかし、右膝内側側副靭帯をその場所の取り組み中に痛めてしまい、1番しか取ることができませんでした。これ以降は再び全休するなどした後、丁度1年後の、昨年の初場所後に30歳で現役を引退し、安治川親方として時津風部屋に残って後進の指導に当たり始めました。昨年の九州場所前に佐ノ山親方に名前を変えて現在に至ります。
三役に定着することが期待される正代関
現在、時津風部屋で関取の力士として活躍している1人である正代関は平成3年11月生まれの25歳で、少年時代から相撲中心の生活を送っており、その実力は中学生の時に全国中学生相撲大会の団体優勝に貢献したり、高校生の時に国体相撲で優勝したりするほどでした。卒業に地元熊本県から東京農業大学に進学したのちも先述した実力は健在で、2年生の時に学生横綱のタイトルを得たり、3年生の時に全日本相撲選手権大会に進出したりすることができました。大学卒業後の平成26年春場所にOBが所属していて縁があった事などから時津風部屋に入門し、初土俵を踏みました。
出典: http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile/?id=3521
正代関の強みは胸から強く当たるなどして相手の重心を上げてから右四つに組んでから寄り切るなどして攻める事であり、取り組みの終盤に押し出したり突き落したりすることも得意にしています。これらの強みを活かして番付を上げていき、入門して1年半後には関取の座を掴み、そこから負け越すことなく十両を2場所で通過し昨年の初場所には24歳で新入幕を果たしました。ちなみに、その場所は10勝を上げて三賞の1つである敢闘賞をいきなり獲得することができました。入幕後も安定して番付を上げていき、丁度1年前から幕内上位の土俵で活躍できるほどの実力を有するようになり、今年に入ると関脇を含め三役を2場所務めるなどの活躍を示すことができました。付出以外で入門して3年も経たないうちに新入幕を果たしたことが史上2位のスピード出世であると当時話題になりました。今年の夏場所でも10勝を上げており、再び三役の番付に上がって、勝ち越すことができるかが期待される力士の1人です。
先代と同じ四股名で活躍が期待される豊山関
時津風部屋で関取の力士として活躍している、もう1人は豊山関で、平成5年9月生まれの23歳で、少年時代は相撲と野球のスポーツ経験を持っており、後者は中学時代に一塁手として活躍できるほどの腕がありました。前者も高校総体でベスト8に入ったり、東京農業大学でも同程度の成績を上げたりすることができました。これが評価される形で卒業後の昨年春場所に三段目付出として時津風部屋に入門し初土俵を踏みました。
出典: http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile/?id=3683
豊山関の強みは、廻しを取らずに突き出したり、押し倒したりすることであり、右四つに組んで左の上手を取ってから寄ることも得意にしています。これらの強みを活かして負け越すことなく番付を上げていき、1年も経たない昨年の九州場所には関取の座を掴み、23歳で迎えた半年後の今年夏場所では新入幕を果たしました。このタイミングで、本名の小柳から、同じ新潟県出身且つ大学のOBで師匠を長年務めた力士である豊山に名前を変えました。しかし、腰高である点や四つになって攻める強みが不十分であることなどから、この場所は負け越してしまいました。これらの点を克服して幕内で定着して活躍できるかが期待される力士の1人です。