二所ノ関部屋と親方・関取紹介
元大関若嶋津関が師匠を務める二所ノ関部屋とは
現在の二所ノ関部屋は、今から27年前の平成2年春場所前に、栃若時代として昭和30年代の土俵を沸かした第45代横綱若乃花関が師匠を務めていた二子山部屋で後進の指導に当たっていた元大関若嶋津関が独立して松ヶ根部屋を興したのがルーツで、その後、平成26年九州場所後に名前が松ヶ根から二所ノ関に変更したことに伴って、部屋名も二所ノ関部屋に変わって現在に至ります。ちなみに、この2年ほど前には元関脇金剛関が師匠を務めていた先代の二所ノ関部屋から一部の親方や力士などを引き取っています。
その二所ノ関部屋は千葉県船橋市のJR武蔵野線沿いに部屋を構えており、周辺には中山競馬場や大型ショッピングセンターなどがあり、船橋市内でも市川市寄りの西部地域に位置しています。国技館へは最寄りのJR武蔵野線船橋法典駅から乗り換え1回で50分ほどかかることから少し所にあることになります。
二所ノ関部屋に所属している力士は幕内で活躍している松鳳山関を筆頭に、三段目に6人、序二段に3人、序ノ口に2人の計12人となっていますが、今年の夏場所には1人の新弟子が加わる予定となっています。また、裏方職としては全て関取に匹敵する地位で行司・呼出・床山が2人ずつ、計6人が在籍しています。さらに、元関脇麒麟児関の北陣親方、元小結大徹関の湊川親方のベテラン親方2人と、元関脇玉乃島関の放駒親方、元玉力道関の松ヶ根親方の中堅格の親方2人の計4人が後進の指導に当たっており、マネージャーの1人を加えて少なくとも26人が共同生活をすることになります。ちなみに二所ノ関部屋の、ちゃんこ鍋も色々な種類がありますが、部屋に在籍していた元力士が複数出店しており、定番の味噌味や醤油味などのちゃんこ鍋はこれを通じて食べることができるのではないかと思います。
二所ノ関部屋の女将さんは、元歌手の高田みづえさんで、現在56歳で、若嶋津関よりも3歳年下です。今から40年前にテレビなどのメディアを通じて歌手デビューし、活動が盛んだった昭和50年代は歌手だけでなく、テレビのお笑い系コントに挑戦するなど、タレントとしても活躍をしていました。若嶋津関と同じ鹿児島県出身だったことから縁ができ、若嶋津関が大関だった昭和60年2月に結婚すると、これまで活躍していた場から全て引退して以来32年間、若嶋津関や部屋を支えています。ちなみに、結婚直前に出たお笑い系番組において、相撲コントをベースにしたネタで送り出されたシーンは一部世代では知っている方もいらっしゃると思います。また、歌手活動としては引退して30年後にNHKの音楽番組に1回だけ出場したことがあります。
現在の二所ノ関部屋の師匠、若嶋津関の紹介
現在、二所ノ関部屋の師匠を務めている元若嶋津関は昭和32年1月生まれの60歳で、少年時代には相撲の他にも水泳とマラソンなどのスポーツ経験がありました。高校卒業後の昭和50年春場所に地元の鹿児島県から上京して、二子山部屋に入門し初土俵を踏みました。
若嶋津関の強みは身長190cm近くに対して体重が120kg台のソップ型ではあるものの、左四つに組んでから寄り切ったりする寄りと右からの上手投げなどで、これらの強みを活かして、入門して丸5年で関取の座を掴み、ほぼ1年後の昭和56年初場所には24歳で新入幕を果たしました。ちなみにこの場所で10勝を上げて三賞の1つである敢闘賞を受賞する活躍を見せました。
入幕後も着実に番付を上げていき、すぐに幕内上位で相撲を取ることができるようになりました。僅か1年後には三保ヶ関部屋所属で昭和の大横綱の1人とされている第55代横綱北の湖関から2回連続の金星を含む12勝を上げる大活躍を見せました。ちなみに、この場所では三賞の技能賞も獲得しました。その次の場所からは三役に定着するようになり、初金星から丸1年後の昭和57年九州場所でも12勝を上げ、半年間、三役の地位で通算34勝の好成績を上げたり、三賞を計3個獲得したりする実績が評価されて、この場所後に25歳で大関に昇進することができました。ちなみに、取り組みの際の顔立ちなどから、南海の黒豹とも呼ばれていて、人気力士の1人として土俵を盛り上げていました。
若嶋津関は大関に昇進してからも、取り組み中に右足首を骨折して途中休場を1回経験した以外は、10勝以上の好成績を安定して挙げる実力を示し続けました。そして27歳だった昭和59年は実力が大いに発揮された1年で、この年の春場所では14勝を上げて初の幕内最高優勝に輝くと、1場所空いた、名古屋場所では15戦全勝という大活躍を示して2度目の幕内最高優勝を果たし、周囲からは横綱昇進への期待がかかる声が一気に高まり、人気が、さらに高まる結果になったと思われます。ちなみに、この年で勝率ほぼ8割を上げて年間最多勝を獲得することができました。
ところが、全勝優勝を果たして丁度1年後、取り組み中に左肩と左肘の関節を痛めて途中休場をして以降は、これらの怪我と糖尿病などの影響で、皆勤出場しても10敗を喫して負け越すなど、成績が低迷してしまい、大関に昇進して4年半後の昭和62年名古屋場所中に30歳で現役を引退しました。その後は松ヶ根親方として、3年近く二子山部屋に残って、部屋付き親方として後進の指導に当たりました。後に独立して松ヶ根部屋を興し、部屋の名前を二所ノ関部屋に変更して現在に至ります。
花のニッパチ組の1人として長く上位で活躍した元関脇麒麟児関の北陣親方
現在、二所ノ関部屋には4人の親方が後進の指導に当たっています。まず、元関脇麒麟児関の北陣親方は昭和28年3月生まれの64歳で、早生まれであるものの、昭和の大横綱の1人である三保ヶ関部屋所属の第55代横綱北の湖関や間垣部屋の師匠を務めたこともあった二子山部屋所属の第56代横綱若乃花関などと同じ、昭和28年生まれの力士として主に昭和50年代の土俵を沸かせた「花のニッパチ組」の1人とされています。麒麟児関は少年時代に柔道のスポーツ経験があり、これを活かす可能性が高いと考えて、大相撲入りを志望し、中学生だった昭和42年に千葉県から上京して相撲部屋を複数回った結果、元大関佐賀ノ花関が師匠を務める二所ノ関部屋に入門し、その年の夏場所で初土俵を踏みました。ちなみに、所属部屋が決まったのは3部屋目で、当時中学3年生に相当する年齢でした。
麒麟児関の強みは廻しを取らずに突っ張ったり押し出したりして攻めていく突き押し相撲がベースで、左四つに組んでから寄り切り等の寄りも得意にしていました。これらの強みを活かして番付を上げていき、入門して6年半ほどで関取の座を掴み、初めて番付に名前が載って丁度7年になる昭和49年秋場所には21歳で新入幕を果たしました。入幕後も強みが直ぐに通用するようになり、関取丸1年になる昭和50年初場所には花籠部屋所属の第54代横綱輪島関から初金星をあげたり、三賞の1つである敢闘賞を獲得したりする活躍を見せ、以降4年間は、1場所だけ足首を怪我したために休場した以外は、安定して幕内上位の土俵で相撲を取れる実力を有するようになり、うち半分を関脇などの三役を務めたり、技能賞などの三賞を9個獲得したりする活躍を見せました。成績だけでなく、取り組みにも印象的なシーンを残した力士の1人として知られており、特に昭和50年夏場所の天覧相撲で、元中村部屋師匠で高砂部屋所属の元関脇富士櫻関との取り組みで見せた突っ張りの応酬は凄まじく印象に残るものだったとされています。
取り組み中に左膝を痛めて途中休場した後は成績が低迷するようになり、一時的に十両に落ちたこともありましたが、1年以内には幕内上位の番付に戻ることができ、元武蔵川部屋師匠で第57代横綱三重ノ海関などから金星を2つ獲得したり、小結をさらに6場所務めたりする実績を残しました。最終的に幕内の土俵をほぼ14年間務め、現芝田山部屋師匠で放駒部屋所属の第62代横綱大乃国関からの金星獲得・敢闘賞での三賞・小結在籍の実績を残した昭和63年の秋場所中に35歳で現役を引退しました。現役引退後は北陣親方として二所ノ関部屋に残って後進の指導に当たっています。また、テレビなどの大相撲中継の解説者を毎場所1~2回ほど務めており、その解説が分かりやすいという好評価が複数あるほどの名解説者の1人として活躍をしています。
皆勤で19年間相撲を取った人気力士である元小結大徹関の湊川親方
元小結大徹関の湊川親方は昭和31年10月生まれの60歳で、少年時代は剣道のスポーツ経験を持っていました。中学3年生だった昭和46年に地元の福井県から当時の二所ノ関部屋に入門し、名古屋場所で初土俵を踏みました。
大徹関の強みは身長190cm台の長身を活かした内容で、左四つに組んでから右上手を取って投げたり、そのまま吊りながら寄って攻めたりするものでした。これらの強みを徐々に身につけていく形で番付を上げていき、入門して8年半で関取の座を掴み、関取に定着するまで時間はかかりましたが入門後11年で安定した成績を残せるようになりました。そして昭和58年九州場所には27歳で新入幕を果たしました。入幕して5年間は幕内の番付に定着して相撲を取る実力を示すことができ、このうち3割ほどは幕内上位の番付まで上がって相撲を取っており、この間に昭和の大横綱の1人として知られている先代九重部屋師匠の第58代横綱千代の富士関から金星を上げたり、今から30年前には小結に昇進できたりする活躍を見せました。時代が平成に変わると十両力士として相撲を取るようになり、34歳だった平成2年秋場所後に現役を引退して、湊川親方として二所ノ関部屋に残って後進の指導に当たるようになり現在に至ります。ちなみに入門して引退するまでの19年間、一度も休まずに土俵に立ち続けた数少ない力士の1人となっています。
また、大徹関は成績だけでなく、巡業先などでサインや写真撮影に気軽に応じるなどのファンサービスが旺盛だったことや、揉み上げの長太さなど風貌が印象的だった点などから、昭和の終わりに活躍した力士の中でも特に人気があった1人として知られており、引退して四半世紀以上経った今でもファンが少なからずいます。
多彩な強みで活躍した元玉力道関の松ヶ根親方
元前頭玉力道関の松ヶ根親方は昭和49年4月生まれの43歳で、中学生の時には平成の大横綱の1人である二子山部屋所属の第65代横綱貴乃花関と同じ明大付属の学校に所属していました。大学4年生の時に全日本相撲選手権大会で3位の実績を残したことが評価され、卒業後の平成9年春場所に元関脇玉ノ富士関が師匠を務める片男波部屋に入門し、幕下付出として初土俵を踏みました。
出典: http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=88&l=j
玉力道関の強みは右四つに組んでから、寄り切ったり、左上手から投げたりすることで、双差しになって攻めたり、足を内側から掛けて跳ね上げるようにして倒す掛け投げも得意にしていました。これらの強みを活かして、入門して2年半後には関取の座を掴むことができました。そこから4年間は、怪我などで途中休場したり、全休したりすることもありましたが、関取に安定して定着する実力を示すことができ、関取になってから1年ほど経った平成13年初場所には26歳で新入幕を果たしました。入幕後は、1年間安定して幕内で活躍していたこともありました。ところが、取り組み中に左膝を痛める怪我をして途中休場して以降は成績が低迷してしまい、一時三段目まで落ちたこともありましたが、これを克服して、2年後の平成18年春場所には31歳で再び関取に返り咲きました。そこから2年弱は関取として土俵に立ったものの、取り組み中に右膝を痛めるなどして休場したことにより再び取的の番付に落ちてしまいました。そして平成22年初場所後に35歳で現役を引退し、荒磯親方として3年半、後に二所ノ関親方に名前を変えて1年半近くの約5年近くを片男波部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていました。平成27年初場所前に、松ヶ根部屋が二所ノ関部屋に変更する頃に移籍し、名前を松ヶ根親方に変えて現在に至ります。
スポーツ一家に育った元関脇玉乃島関の放駒親方
元関脇玉乃島関の放駒親方は昭和52年9月生まれの39歳で、伯父が伊勢ヶ濱部屋の師匠を務めたこともある元大関清國関、父が元プロレスラー、兄が元十両の玉ノ国関という相撲中心のスポーツ一家ということもあり、少年時代から相撲中心の生活をしており、中学卒業後には地元福島県から金沢市立工業高校への相撲留学を経験した後、上京して入学した東洋大学2年生の時に、大学の大会で優秀な成績を収めたことが評価された形で、幕下付出として、平成10年春場所に片男波部屋へ入門して初土俵を踏みました。
玉乃島関の強みは廻しを取らずに右をおっつけながら攻めていく突き押し相撲と、左四つに組んでから寄り切るなどの寄りで、これらの強みを活かして、入門して1年半ほどで関取の座を掴み、それから1年余りたった平成12年九州場所に23歳で新入幕を果たしました。入幕後はほぼ9年間、幕内の番付に定着するほどの実力を示すことができ、その中でも複数回にわたって幕内上位で相撲を取る経験をしており、入幕して1年以内に三役に昇進したり、三賞の1つである敢闘賞を2回獲得したりする活躍を見せました。幕内に定着して2年後にはそのような地位に定着する実力を身につけることができ、その間に高砂部屋所属の第68代横綱朝青龍関らから2つ金星を上げたり、関脇に昇進したりする実績を残しました。しかし、取り組み中に左腕や右肩などを複数回怪我した事などから十両に陥落して1年半後の平成23年九州場所中に34歳で現役を引退し、西岩親方として片男波部屋に残って後進の指導に3年ほど務めた後、二所ノ関部屋に移って現在に至ります。なお、転籍する1年半前に今の放駒親方に名前を変えています。
二所ノ関部屋唯一の関取として活躍している松鳳山関
現在、二所ノ関部屋で唯一関取として活躍している松鳳山関は昭和59年2月生まれの33歳で、少年時代は空手や水泳などの幅広いスポーツを経験した後、野球・相撲・柔道の3つを本格的に行っており、その実力は地元の大分県の各々の強豪校から複数スカウトを受けるほどでした。最終的に高校生の時に相撲に専念するようになり、進学先の駒澤大学に在籍していた頃に国民体育大会で準優勝をする実績を残しました。数多くのスカウトの中で、最初に若嶋津関がかけた事などから、卒業後の平成18年春場所に、当時の松ヶ根部屋に入門して初土俵を踏みました。
出典: http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile?id=2910
松鳳山関の強みは、廻しを取らずに、立ち合いから両手を突いて相手を一気に突き出す、突き押し相撲で、この過程で双差しになっても強みを発揮することができます。これに加えて、左四つに組んでから寄ったり、右上手投げで仕留めたりすることも得意にしています。これらの強みを活かして、番付を上げていき、入門して4年後の平成22年夏場所には関取の座を掴むことができましたが、この年に起こった問題に関与した事などから、2場所の謹慎となってしまいました。復帰後は幕下で2場所連続優勝するなどの活躍を示すことができ、復帰して1年も経たない平成23年九州場所には27歳で新入幕を果たしました。このときに四股名を本名から今の松鳳山に変更しています。
松鳳山関は入幕後も3年半にわたって幕内の番付に定着する実力を示し、この間に三賞の1つである敢闘賞を2回受賞したり、小結を4場所経験したりする実績を残すことができ、30歳目前の平成25年秋場所には伊勢ヶ濱部屋所属の第70代横綱日馬富士関から初金星をあげる活躍も見せました。その後は、強みを発揮するのが難しくなってしまい、13連敗して幕内から陥落してしまいましたが、思い直すなどしたことから半年後に再入幕することができました。それ以降、現在まで幕内の座に定着して相撲を取っており、特に今年は、日馬富士関に加えて、井筒部屋所属の第71代横綱鶴竜関からも連続して金星を上げるなどの実績を示しており、今後の活躍が期待される力士の1人と言えると思います。