ビール発展の歴史、ファラオもハンムラビ王も修道院も1枚噛んでいた?

人類最古の酒の1種であるビールですが、さてどの地域が最初に造り始めたかと言うと、なかなかに決めがたいものです。なにせ昔々のことですからね。

その中でも以下の2つの地域で、かなり古くから造られていたのは間違いのないところでしょう。

古代メソポタミアの場合

現在のイラン、イラクの2ヶ国にまたがる地方で、チグリス川、ユーフラテス川にはさまれた土地(南部メソポタミア)で暮らしていたシュメールの人々。

狩猟・採集生活を送っていたその頃の人類の中で、最初に穀物を栽培し定住生活を始めたのは、彼らシュメール人だったと考えられています。
紀元前8,000年頃には、早くも雨水を耕作用水とする原始農耕が始まっていました。

シュメール人は楔形文字を使っていましたが、大量の粘土板に、生活の様々な場面の記録を刻み込んで残しています。

その中に、豊穣、収穫、戦闘を司るのと同時に、ビール造りの神様でもある女神に捧げる詩、2編が刻まれていました。その1編に、ビールの造り方が紹介されています。
もう1編には、身も心も軽くなり気分が華やぐ、酔う事の楽しさが歌われています。

この粘土板文書によれば、彼らは栽培した穀物からバッピァ(bappir)と呼ぶ2度焼きパンを作り、そのパンを水に浸して自然発酵を待ちビールを造りました。

シュメール人にとって酒を飲むと言う行為は、ただ楽しむためだけではなく、共同体としての結束を固めるための儀式でもありました。ビールを満たした壺を取り巻くように座って、各々が葦(アシ、水辺に生える草で、茎の中は空洞になっている)のストローを壺に突っ込みビールを飲みます。

「同じ釜の飯を喰う」・・・ならぬ、「同じ壺のビールを飲む」です。

お金持ちのシュメール人は、おもむろに美しく装飾をほどこしたマイストローを取り出し、この儀式にのぞんだとか。

バビロニアが受け継ぎ、ハンムラビ王も登場

紀元前2,000年頃には、シュメールはバビロニアに征服されてしまいますが、ビール造りの技術は受け継がれます。

それまで家事として家庭内で行われていたビール造りは、軍人への配給の目的も加わり、組織的な事業となって行きました。

バビロニア人にとってこれは大切な作業だったらしく、質の悪いビールを造った者は、刑罰に処せられることもありました。

ハンムラビ王は、ハンムラビ法典で有名なバビロニア第6代の王様ですが、ビール発展の歴史にも1枚噛んでおられます。

この王様はビール醸造に関する規則を整備し、その分類の明確化に力を尽くされました。

ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」のくだりばかりが有名ですが、当然刑法ばかりが書かれているわけではなく、慣習法やハンムラビの業績についても述べられています。

その中で、20種類のビールが法律で認められたものとして明記され、うち8種類は大麦のみを原料とするビール、残りの12種類は、他の穀物をさまざまに組み合わせたものを原料とする、と規定されました。

バビロニアでは、スペルト小麦(現在のパン小麦の原種にあたる古代穀物、9,000年以上前から栽培されていた)を原料にしたビールが、最も高く評価されていました。

古代エジプトの場合

エジプトでも古くからビールが造られていたことは、今日では広く知られています。その歴史は少なくとも紀元前3,000年まで遡れます。

エジプトのビールについては、様々なハーブで風味付けをした度数10%ほどの結構強いものだったと言う説と、度数はそれほど高くなく、とろみの付いたスープ状のもので、飲み物よりも食物扱いだったと言う説があります。
こちらは、「子供のお弁当としてパンとビールを持たせた」との記述も残されています。

どちらが正しいと言うよりも、幾種類かあったと考えるのが妥当でしょう。

エジプトと言えばピラミッドですが、奴隷が鞭打たれながら造ったのではなく、専門の労働者がきちんと報酬を得て建設した、そしてその報酬の中にはビールが含まれていた。現在ではこれが定説になっています。

1日の労働を終え、夕日を浴びるピラミッドを眺めながら、「今日は仕事がはかどった、明日も頑張るか」と仲間とビールを酌み交わす。なかなか良い場面ではありませんか。

紀元前30年、エジプトはローマ帝国の属州となりましたが、穀物酒のビールより果実酒のワインを愛したローマ人は、ビールの製法にあまり興味を抱きませんでした。

ヨーロッパでは修道院が活躍

太陽の光に恵まれ、美味しいブドウが育つローマ帝国ではワインが愛飲され、エジプトのビール製造技術は、ブドウが上手く育たない北ヨーロッパに広まりました。

よくしたもので、ブドウが育たない土地では、大麦、小麦が良く実るのです。

ヨーロッパでのビール製造に大きな役割を果たしたのは修道院です。

610年頃、醸造家の守護聖人として讃えられる、フランス・メッツの司教だった聖アルノーは、伝染病の蔓延を防ぐためにも、生水ではなく、煮沸した水を用いて造られるビールを飲むように、人々に説きました。

まだ病原菌についての知識は無かったはずですが、経験則として生水の危険性に気付いていたのでしょう。修道院がビール製造に積極的に関わったのは、このあたりの事情も関係していたと思われます。

修道院の果たした重要な役割としては、ビールの風味付けや腐敗防止のための、グルートと呼ばれる香味料の使用があげられます。グルートにはニガヨモギ、ノコギリソウやヤマモモなどが用いられました。

ホップが普及するまでの間グルートは活躍しましたが、ホップの爽やかな苦みには勝てず、徐々に廃れていきます。

今回は初期の頃のビール造りをご紹介しました。次回からは、現代の産業としてのビール製造へつながる過程について、国別にお話ししたいと思います。