織田信長の革新性①当時の仏教勢力

今回は織田信長を取り上げたいと思います。信長は日本史の中でも大変人気がある人物です。その理由は、戦が強かったこと、常識にとらわれることなく斬新なアイデアを次々と打ち出したこと、などがあると思います。2014年には、小栗旬主演の『信長協奏曲』(のぶながコンチェルト)がドラマ化され、2016年には映画化もされました。

今回は信長が生きた時代背景をしっかりと理解した上で、織田信長の革新性について改めて考えていきたいと思います。この時、理解の鍵になるのが「宗教」です。応仁の乱によって室町幕府は実質形骸化し、全国では戦国大名たちが群雄割拠し、当時の日本は無政府状態でした。この時代に大きな力を付けていったのは仏教勢力です。仏教という宗教を掲げた彼らは独占的に地域の経済を独占、利益をむさぼり政治にも関与していました。詳しく見ていきましょう。

1.寺は最先端技術の輸入センター

聖徳太子の時代から僧侶は仏教を学ぶため留学僧として海を渡りました。留学僧としては、中国で学び日本で新しい宗派を開いた最澄や空海、道元や栄西などが有名です。しかし留学僧は仏教の教理だけではなく、農業や建築技術、また紙や醤油の作り方など生活を便利にする実用的な技術も学び、日本に持ち帰ったのです。留学僧たちにとっては、仏教だけでなく中国から様々な最先端技術を学ぶことも大切な役割のひとつだったのです。

室町時代に入ると、荘園制が崩壊して朝廷や貴族が没落し、土地を失いました。その土地に仏教勢力が進出し、拠点となる寺を建てていきます。当時の寺というのは、仏教の教えを説く単なる宗教施設ではなく、当時の最先端技術の輸入センターのような役割を果たし、その技術によって作ることのできる商品(油や紙など)の作り方、つまりマニュアルをたくさん持っていました。

2.「座」とは何か?

ところが寺は、技術はあってもそれを大量生産したり販売することができる、いわば工場や店舗(流通手段)のようなものは持っていません。そこで寺はモノの作り方をまとめたマニュアルを商人に売ったわけです。今の言葉でいうと、マニュアルとは「特許権」のようなものです。しかし、寺が持つ先端技術が広く世に流通してしまい、他の商人にマネされてしまうと寺社の利益が減少してしまいます。そこで寺は特定の商人のみに特許権を売りました。こうした特定の商人による集まりを「座」というのです。そして「座に入りたかったら入会料を払いなさい」ということで法外な額を商人に請求し、入会料でも寺は儲けていたのです。

3.「関所」とは高速道路だった

座に入り、寺から特許権を買って商品を作ったら次にどうするか。商品というのは、作っただけでは儲けになりません。人に売って初めてお金になります。そのため商品を売るために、人の集まる市場まで商品を運ぶ必要があります。寺はこの流通経路と市場も手中に収めていました。

では流通経路から見ていきましょう。「関所」という言葉は聞いたことがあると思いますが、そもそも関所とはなぜ存在するのでしょうか。関所というのは、今でいうと出入国管理事務所ようなもので、武器や禁制品などが入ってこないようにしたり、逆に大事なものが持ち出されないように監視するためにありました。しかしその目的は形骸化してしまい、関所とはその道を通過する人に対して通行料を徴収する、というビジネスのために利用されるようになってしまいました。私たちも高速道路を使うと料金を払いますが、これと全く同じです。寺はこの関所をも支配(管理)し、関所を利用する商人や農民から通行料を取っていたのです。

3.「商売をしたいのなら、場所代を払え」

次に市場についてですが、ついに商品を売るために市場に到着し、商品を売ろうとしますが、ここでもまだお金がかかります。市場というのは、不特定多数の人間が集まりやすい交通の便がいいところにできます。具体的は港であったり、街道と街道が交差しているところであったりと、多くの人が往来する場所に市場ができます。三重県の四日市市は毎月4日に市場が開かれることから、「四日市」という名が付けられたことは有名です。こうした市場の実権も寺が握っていました。「ここで商売をしたいのなら、場所代を払え」と要求し、商人は今でいうとテナント料(賃貸料)のようなものを義務付けられました。

4.寺は武器(軍事力)も持っていた

特許権の販売をする「座」、通行料を徴収する「関所」、賃貸料を義務付けた「市場」、経済活動の中枢を全て支配し、今でいうと日本の農業を独占する農協(JA)のような存在である寺は莫大な利益を上げました。では、寺はその莫大な利益をどのように使ったのでしょうか。また、なぜそこまでしてビジネスをしなくてはいけなかったのでしょうか。主に3つの理由があります。

一つ目は、政治力を手に入れるためです。寺はその地域をしている権力者(大名)に今でいうと政治献金をして、寺にとって都合のいい政策を作ってくれるように懇願するためです。寺が経済を牛耳り、やりたい放題にできたのは、こういった裏金を大名に渡して政治力を持ち、大名たちも寺の活動を黙認するしかありませんでした。寺は影の権力者でした。

二つ目は、武器を購入するためです。商人の中には、寺の独占的な在り方に疑問を感じて、特許料を払わなかったり、賃貸料を払わず、安く 商品を売ろうとする者もいます。そういった商人に対して一番効率の良い方法は、暴力で脅すことです。寺は圧倒的な武力を見せつけ、反発する勢力を抑え込もうとしました。

三つ目は、戦争費用です。日本の歴史教科書には「宗教戦争」という言葉は出てきませんが、実は日本にもありました。特に日蓮が開いた法華宗(日蓮宗)と浄土宗、また浄土真宗が激しく対立していました。また1532年には「天文法華の乱」という宗教一揆があり、天台宗である比叡山延暦寺が京都にある日蓮宗の寺院に焼き討ちをかけたテロ事件が起きました。この乱は戦国時代に突入するきっかけとなった応仁の乱よりも規模が大きかったという指摘もあります。

5.日本にも宗教戦争はあった

この時代、仏教勢力同士の争いは互いに武力をもっているため、すぐに殺し合いやテロ活動に発展しました。さらに、巨大な経済力がバックにあるため、その争いは大規模なものに発展しました。現在、中東で起きているイスラム教徒同士の殺し合い、ヨーロッパで起きているテロのようなことが昔の日本でも起きていたのです。

少し駆け足ですが、当時の時代背景を仏教勢力を中心に見てきました。私たちが抱く仏教(寺)のイメージとは大分かけ離れていると思います。少し話がずれますが、キリスト教(カトリック)を伝えに来たイエズス会についても同じようなことが言えると思います。イエズス会は日本にカトリックを伝えるためだけではなく、同時に鉄砲という武器を日本に運んで大名たちに売りつけました。イエズス会はヨーロッパの物品でビジネスをするという目的も兼ねており、またルイス・フロイスは信長のブレーンとして、数々の政策に影響を与えたと指摘されています。当時の宗教というのは政治や経済と強い繋がりがあり、その強い権力によって歴史に影響を与えていました。