織田信長の革新性②信長の政策
前回の記事「織田信長の革新性①当時の仏教勢力」では、戦国時代における状況を宗教勢力である寺に焦点を当てて見てきました。寺は座や関所、市場を独占して地域経済を支配していました。この圧倒的な経済力を背景として政治力、軍事力も兼ね備えており、まさに日本の支配者としてその力(影響力)は絶大でした。しかし、寺が大きな権力を持つことで、商品の物価は高騰し、商人や農民など庶民の生活を苦しいものにしていました。ここまでの状況を踏まえて上で、いよいよ織田信長の政策を確認していきましょう。
1.「楽市・楽座」「関所の廃止」の意味
信長は寺が絶対的な権力を持ち、利益をむさぼっている構造を根本的に変えようとしました。
一つずつ見ていきましょう。まず商品としてモノを作るためにはいちいち寺に特許権を払わなくてはならず、また入会料を払って「座」という商人の寄合に入らなければいけませんでした。その座を廃止し、自由にモノを作っていいことにしました。そして、今までは商売をするために市場ではテナント料(賃貸料)を払わなくてはいけませんが、これも廃止して、今でいうと市場をフリーマーケットのようにしました。これが「楽市・楽座」です。
また商品を運ぶときに関所に通行料を払わなくてはいけませんが、それも廃止しました(関所の廃止)。信長がどんどん領土を拡大していけば、それだけ楽市・楽座、関所の撤廃が適応される範囲が広がっていき、物価も下がり、庶民の生活は楽になっていきました。例えば、信長が伊勢の国を取ったとき、伊勢の国には伊勢神宮がありますから、そこまでに至るまでに関所がたくさんありました。信長が領主になった途端、庶民たちの負担がなくなったのですから、人々は拍手喝采で信長を支持しました。信長の領土には多くの人が押し寄せ、毎日市場が開催されているような賑わいで町は活況を呈しました。こうして出来た街を「城下町」といいます。さまざまな規制を撤廃したことで、結果として多くの利益が信長に入ってきたのです。
2.徴兵制から傭兵制へ
また信長は、こうした政策をうまく回すためにもう一つ大事な改革を行っています。それが職業の分業化(兵農分離)です。農民は農業に専念させ、商人は商売に専念させ、兵士は戦争に専念させました。当時、戦に参加していた兵士はほとんどが農民でした。そのため米の収穫期には本国に戻らないといけないため、好きなタイミングで戦をすることができませんでした。信長は楽市・楽座などで稼いだ利益によって兵士を雇い、今までは農民中心だった兵士から専門兵士への育成を図りました。農民中心の徴兵制から給料を払う傭兵制に切り替えたのです。
このメリットは農業を気にしなくていいため、一年中戦ができ、状況の変化に迅速に対応できるということです。また戦のない時間は兵士の訓練や武器の調達など戦に向けてきちんとした準備ができました。だから信長は戦に強かったのです。信長の政策の背景にもやはり圧倒的な軍事力がありました。
余談ですが、前回の記事「フランス革命による徴兵制と近代教育の起源」では、フランス政府が徴兵制を導入したことによって、傭兵制を採用していた国々を蹴散らしフランス革命を成功させた、という内容を述べさせてもらいました。信長の成功は、徴兵制から傭兵制なのでフランス革命とは逆パターンです。このあたりを深く分析するのも非常に面白いと思います。
3.既得権益を破壊された寺は猛反発
しかし、信長のことを心底快く思わない人たちがいます。いままでの既得権益を破壊された寺です。寺は信長を宗教の敵である「仏敵」として、本願寺などは何度も信長を攻めています。信長は、宗教勢力が地域経済を支配して政治に関与したり、武器を持つことはおかしいと考えていました。そのため寺に対してもかなり厳しい対応をしています。比叡山延暦寺の焼き討ちや本願寺との石山合戦などが有名です。ここから信長は「宗教を純粋に信仰する寺を焼いたひどい奴だ」というイメージが付き、信長の人気を落としている要因にもなっています。
私たちは寺やお坊さん(僧侶)と聞くと、いつもニコニコしていて、人生を生きていく上で大事な説法をしてくれる平和な人たちというイメージを持ちます。しかし今まで確認してきた通り、当時の寺は圧倒的な経済力によって政治力と軍事力を持ち、宗派(考え方)の違いで殺し合いやテロ活動を行っていた武装集団でもあったのです。信長はそうした寺に対して武器を捨てることを要求し、武器を捨てさえすれば信仰の自由は認めると伝えていました。しかし既得権益を手放したくない寺は信長を相手にしませんでした。そのため信長は寺を焼いたのです。
4.私たちが宗教を意識しないのは信長のおかげ
たしかに信長は徹底的に寺を焼いたので、ひどい部分があるかもしれません。しかし、今の私たちが普段の生活で宗教の存在を意識せず、宗教団体が政治に関与せず(最近は若干怪しいですが…)、政教分離がしっかりできているのは、信長が宗教勢力の武装解除を徹底して行ったからです。『ローマ人の物語』で有名な塩野七生氏も、ヨーロッパが今でも宗教の問題で苦しんでいる状況を考えれば、信長が徹底して寺と戦ったことは「織田信長が日本人に与えた最大の贈り物」であると絶賛しています。
しかし信長は天下統一の夢は本能寺で散ってしまいました。以前の記事「貴乃花親方は秦の始皇帝」でも触れましたが、急激な改革は保守派によって必ず抹殺されます。本能寺の変に関しては様々な説がありますが、おそらく明智光秀のバックには保守派がいたことが予想されます。その保守派とは朝廷(天皇)なのか、寺などの仏教勢力か、またはイエズス会か…真相については今後の研究に期待したいところです。
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