織田信長の革新性③豊臣秀吉の課題とは?
前回の記事「織田信長の革新性②信長の政策」では、信長の政策に触れ、いかにして信長が天下統一を成し遂げる寸前までたどり着いたのかを確認しました。信長は仏教勢力(寺)に対しては断固とした態度を取り、彼らの既得権益を次々と奪っていきました。彼の徹底した改革は、次の時代の建設者というよりは、今までの時代の破壊者としての性格の方が強いと思います。言い方を変えると、古い時代から新しい時代へのスタートラインを作ったとも言えます。
しかし、急激な改革は保守派によって激しい反発をくらいます。前回の記事「貴乃花親方は秦の始皇帝」でも触れたように、保守派の反発をくらい短期政権に終わった王朝(秦)の次は、保守派とのバランスを重視して長期政権(漢)になります。
信長の意志は豊臣(羽柴)秀吉と徳川家康が引き継ぐことになります。信長の残した課題は大きく2つあります。一つ目は、信長の政策をどのような形で引き継ぐのか。二つ目は、信長の行き過ぎた改革にブレーキをかけ、保守派との関係修復を図ること。今回はこの課題を豊臣秀吉はどのように解決しようとしたのか見ていきたいと思います。
1.刀狩りの真の意味は?
一つ目の課題として、秀吉は信長の政策をどのような形で引き継いだのでしょうか。
前回の記事「 織田信長の革新性②信長の政策」で、信長は仏教勢力である寺に対して厳しい態度を取ったことを確認しました。この目的は寺の武装解除が目的でした。しかし武装解除に応じなかったため、信長は比叡山延暦寺や本願寺と徹底的に戦い、最終的に彼らは信長に屈しました。この後、信長は本願寺に対して「今までのことは全て許す」という書状を送っています。そしてこの書状には、今後も信仰の自由を認めるとも書かれています。信長の目的はあくまでも宗教が大きな権力をもたないこと、つまりは政教分離を実現することだったことがこれで分かります。
信長が本能寺で自害した後、信長の意志を継いで天下統一を成し遂げたのは豊臣(羽柴)秀吉です。そして秀吉が行った「刀狩り」と「太閤検地」は、あくまでも信長の政策の延長線上にあることを確認したいと思います。
刀狩りと聞くと、農民などの庶民たちが秀吉に対して暴動(一揆)を起こさないようにするため、民衆から武器を取り上げた、というのが定説になっています。しかし、もう一つ大事な目的があり、それは寺から武器を取り上げることも刀狩りには含まれています。刀狩りには、信長が進めた仏教勢力に対する武装解除という政策の総仕上げという意味合いもあるのです。
2.太閤検地の意味とは?
そして次に秀吉が行ったのが太閤検地です。太閤検地とは、ざっくりというと日本全国の土地を測量したことをいいます。きちんと土地の大きさを図り、ちゃんとした量の年貢を農民に収めさせるというのが目的です。しかし他の目的もありました。寺には武器の他にも隠し財産がありました。それは寺が自由に使うことができる土地です。室町時代あたりから、朝廷(天皇)や貴族(藤原家をイメージするとわかりやすいでしょうか)が力を失い、土地(荘園)も失いました。寺はその土地(荘園)を手に入れることで、絶大な権力を築くことができたことは前回の記事「織田信長の革新性①当時の仏教勢力」で確認した通りです。つまり寺は土地(荘園)をたくさん保持しており、太閤検地は寺が持つこうした土地(荘園)を取り上げることも大きな目的の一つだったのです。
このように見ていくと、秀吉は信長の政策を着実に引き継ぎ、実行していることがよく分かります。歴史のつながりが見えてくると、歴史は楽しくなると思います。
3.なぜ秀吉は征夷大将軍にならなかった?
二つの目の課題は、信長の行き過ぎた改革にブレーキをかけ、保守派との関係修復を図ることでした。
天下統一を成し遂げた秀吉は、天皇から「征夷大将軍」という位をもらうのが自然な流れです。そもそも征夷大将軍とは、奈良時代において、東北地方に住む蝦夷(えみし)という昔からそこに住む民族を征伐するために、朝廷から派遣された指揮官につけられた役職です。それから時代が流れ、源頼朝が朝廷から独立して、武士による政治組織(鎌倉幕府)を作るとき、天皇から「お前は武士のトップだ」というお墨付きをもらうために、再び征夷大将軍という役職が用いられるようになりました。しかし、武士のトップになった秀吉は征夷大将軍ではなく、なぜか「関白」という位を天皇からもらっています。
「関白」と聞いて思い浮かぶのは藤原家だと思います。平安時代、藤原家は皇室との婚姻関係により皇室との結びつきを強め、皇室の要職を独占していきました。特に藤原道長は、自らの娘を次々と皇室に嫁がせて、その子どもを天皇に即位させることによって日本の政治を操りました。摂関政治です。この時の実質的な権力者は天皇ではなく、天皇から任命された関白という役職でした。関白には必ず藤原家の人間が就任(五摂家)し、藤原家は影の権力者として日本を支配しました。
征夷大将軍は武士のトップであり、同時に朝廷とは独立した武家政権(幕府)の責任者も意味します。一方、関白とはあくまで朝廷内部の役職であり、その関白に秀吉が就任したということは、朝廷側の人になったこと意味します。この理由はなぜでしょうか。
4.信長は朝廷(天皇)を軽視していた?
秀吉が朝廷との関係を重視する理由は、信長の失敗を見ていたからだと思います。信長が順調に天下統一を進める中で、朝廷はいくつかの役職を信長にプレゼントしています。信長はその役職に一度は就任するものの、すぐに辞任してしまいます。その後、信長の全国統一が濃厚になると、朝廷は征夷大将軍のポストを用意しましたが、信長は保留しています。この保留中に本能寺の変は起きています。
秀吉は、朝廷を軽視して結局は天下統一をすることができなかった信長の姿を見て、朝廷とは仲良くしなくてはダメだと思ったのではないでしょうか。そのため、征夷大将軍という朝廷とは別組織のトップになり、天皇を刺激するよりは、関白になり朝廷内部に入って天皇のご機嫌を取った方が得策ではないか。このように秀吉は考えたのではないか。この関白就任のときに、秀吉は「豊臣」という姓をもらっています。
余談ですが、「豊臣」の前の姓は「羽柴」であり、その前は「木下藤吉郎(とうきちろう)」でした。信長に活躍を認められて「羽柴」を名乗るようになるのですが、この名前の起源は、信長の重臣であった丹「羽」長秀と「柴」田勝家の両名から、それぞれ一字ずつを拝借して考えられたと言われています。このあたりから、出世大名としての秀吉のしたたかさが感じられます。
また「信長と朝廷の関係性」や「なぜ秀吉は征夷大将軍ではなく関白に」というテーマは、歴史家や研究者の間でも様々な議論があります。今回の記事では、信長と朝廷の関係はあまり良くなかったという立場を取りましたが、逆に信長と朝廷は良好な関係を築いていたという指摘もあります。また秀吉の関白の就任ですが、身分の低かった秀吉が、武士のトップとしてふさわしい権威を手に入れるための手っ取り早い方法は藤原家(五摂家)の養子になり、関白の位をもらうことだった、という指摘もあります。
ぜひ読者ご自身で様々な著作にあたって頂き、ご自身で考えて頂きたいと思います。
5.秀吉は朝廷との関係性を重視しすぎた?
朝廷との関係を重視して関白に就任した秀吉ですが、今から振り返ると、秀吉は朝廷にべったりし過ぎたのではないかと考えられます。豊臣家だけが朝廷に入り浸り、利益をこうむっている姿を他の武士が見たら、どう思うでしょうか。あまり良い気はしないと思います。事実として秀吉が死去した後、豊臣家の求心力は低下し、代わりに徳川家康が天下統一を果たします。豊臣家はその家康によって、大坂夏の陣で滅亡させられることになります。
秀吉のこのあたりの部分は平清盛に似ているところがあり、源頼朝が平氏に対して決起した背景でもあります。源平合戦に勝利して朝廷に入った平清盛に対して、源頼朝が反抗を起こし鎌倉幕府を興した背景については、また別の機会で触れたいと思います。
そして秀吉の名声に影を落としているもう一つの要因として「朝鮮出兵」があると思います。次回は、秀吉がなぜ朝鮮出兵をしたのかを考えてみたいと思います。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません