平昌オリンピックから考える② オリンピックとの向き合い方

前回の記事「平昌オリンピックから考える① オリンピックの歴史」では、古代ギリシアで始まった古代オリンピック(オリンポスの祭典)について説明させて頂きました。

今回の記事では、近代オリンピックが開催された背景と苦難の歴史に迫り、現代のオリンピックが抱える問題点に触れ、私達はオリンピックやスポーツとどのように接していけばいいのか考えていきたいと思います。

まずは近代オリンピックについて見ていきたいと思います。

1.国民国家としてのオリンピック

近代オリンピックが始まった時代を簡単に見ていきましょう。1789年のフランス革命により絶対王政は破壊され、「国民国家」という新しい国家のスタイルが誕生しました。国家の所有者が国王から国民に移ったのです。しかしその後、ナポレオンによる帝政(独裁)時代を経て、ナポレオン失脚後のウィーン体制(1814年)では、時計の針を「フランス革命以前」の状態に強引に戻して、再び絶対王政が復活します。しかし「ナショナリズム」という意識をもった国民の意識までをも変えることはできず、ヨーロッパ各地で革命(諸国民の春)が相次ぎました。結果としてウィーン体制は崩壊(1848年)し、国のスタイルは「国民国家」でやっていくという形でなんとか落ち着きました。

近代オリンピックが誕生したヨーロッパは激動の時代でした。近代オリンピックの創始者であるフランス人のクーベルタン伯爵は、当時行われた普仏戦争(1870年)でドイツ(プロイセン)に敗北し、希望を失っているフランス人に心を痛めていました。そこで、古代ギリシアの「オリンポスの祭典」をモデルとし、スポーツを通じて国民を勇気付けようと考えました。彼はIOC(国際オリンピック協会)を設立し、国際的なスポーツ祭典としてのオリンピック開催に尽力します。

そして1896年、第一回大会がギリシアのアテネで開催されました。しかし、当初のオリンピックの位置付けは万国博覧会などの大きなイベントの余興に過ぎませんでした。オリンピックは価値の低いイベントと見なされ、別のイベントを盛り上げる手段の一つとして考えられていました。

2.ナショナリズムとしてのオリンピック

先ほどもう少し触れましたが、この時期は「ナショナリズム」の時代でした。ナショナリズムとは、「自分は日本人なんだ」と意識することです。日本人の選手がメダルを取ったとき、日本人の自分もなぜか嬉しい感情になります。この感情もナショナリズムの一種です。メダルを取った選手と自分は全く関係はありませんが、日本人であることを共通項として自分も誇らしい気持ちになり、日本人であることに優越感を持つようになることも、ナショナリズムに起因するものです。

こうしたナショナリズムの性質を正確に読み取り、国民に誇りを持たせ、自国民の優秀性を宣伝するものとしてオリンピックを最大限利用し、オリンピックの価値を結果的に高めたのが、皮肉にもあのヒトラーなのです。ヒトラーはナチス・ドイツやゲルマン民族の優秀性を宣伝し、国民から支持を得る手段としてオリンピックを利用したのです。それがナチス・ドイツの主導で行われたベルリン大会(1936年)です。

1933年、国際連盟を脱退し国際社会から孤立し始めていたナチス・ドイツ。総統であるヒトラーはオリンピックを利用し、ナチスの権威を内外に示そうと考えました。国家予算の1%にあたる1億マルクという莫大な予算を投じ、10万人を収容する世界最大のスタジアムなど、多くの施設を作ります。さらに37か国を結ぶラジオ中継網を整備し、世界初のテレビ中継も試験放送されました。

そして、このベルリン大会でドイツ人選手が参加国の中で最も多くのメダルを獲得し、これをゲルマン民族の優秀性の結果であると、ヒトラーはオリンピックを通じて世界中に宣伝しました。このベルリン・オリンピック(1936年)は、第二次世界大戦(1939年)前の最後の大会となりました。ちなみに次のオリンピック(1940年)の開催都市は東京でした。第二次世界大戦のため中止となり、幻の大会となりました。

3.第二次世界大戦後のオリンピック

このように、1896年に始まった近代オリンピックは第一次、第二次世界大戦のときには中止に追い込まれ、また国民のナショナリズムを高揚させるためとして、ヒトラーによって政治利用されるなど多くの苦難を経験してきました。

そして第二次世界大戦後、世界は「冷戦」に突入し、そうした政治的動向にオリンピックも振り回されることになります。様々な政治的理由によって、各国が選手団の派遣を拒否し、大会をボイコットすることが相次いだのです。

1980年モスクワ大会では、ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)に抗議し、日本も含む欧米諸国がボイコットしたため、国際オリンピック委員会(IOC)加盟145か国・地域のうち、モスクワ大会に参加した国と地域数は80に留まりました。日本においても、日本オリンピック委員会(JOC)が臨時総会を開き、不参加を決定しました。選手の中にはメダルが有力視されていた柔道の山下選手、マラソンの瀬古選手などが含まれていました。

1984年のロサンゼルス大会は、社会主義諸国のボイコットがありましたが、参加国と地域数は、過去最高の140国に達しました。

4.ビジネスとしてのオリンピック

このロサンゼルス大会によって、今の私達が知るオリンピックの形が築かれることになります。冷戦期、オリンピックを開催した都市は大幅な赤字を抱えるようになり、政府の財政援助なしでは開催できないようになっていました。そのためロサンゼルス大会では、政府の財政に頼らずに、テレビの放映料やスポンサー企業の協賛金などの民間資金のみで運営されました。その結果、大きな黒字を計上し、オリンピックは儲かるビジネスとしての可能性を示しました。ロサンゼルス大会以降、オリンピックは一気にビジネスの色合いを強くしたイベントに変貌していきます。放映権料はその後も上昇し続け、1996年のアトランタ大会で初めて100億円を突破し、そして今回の平昌と東京大会を合わせた放映権料は500億円~600億になると言われています。

しかし東京都の知事に小池百合子氏が就任すると、即座にオリンピック予算の見直しに着手し予算の縮小を図ろうとし、大きな議論になりました。2017年12月に組織委員会が発表した東京オリンピックの大会予算は1兆3500億円に上ります。もはやロサンゼルス大会で築かれたビジネスモデルでは、オリンピックは成り立たないことを示しており、新しいオリンピックの形が模索される時期が来ているのかもしれません。

5.現代オリンピックの特徴

現代のオリンピックには3つの側面があると思います。一つ目としてはビジネスとしてのオリンピック、二つ目はナショナリズムとしてのオリンピック、三つ目は政治としてのオリンピックです。

一つ目のビジネスは先ほど確認しました。2つ目のナショナリズムは、いまだにオリンピックはナショナリズムを掻き立て、権力が国民を騙す手段として利用されているという事実です。

平昌オリンピックが開催されれば、テレビなどのメディアはオリンピック一色になるでしょう。それにより、現在行われている国会の議論はオリンピックによって埋もれてしまいます。2014年に行われたブラジルワールドカップが行われている最中に、安倍政権は「集団的自衛権」の行使を容認する閣議決定を行いました。本来なら国民全体が考えなくてはいけない重要な問題でした。ヒトラーの例があるように、ナショナリズムという安い酒で、一瞬の快楽として国民を酔わせ、国の課題から目を逸らさせるための絶好の手段の一つとしてスポーツは機能しています。オリンピックも例外ではありません。

三つ目の政治ですが、2012年のロンドン大会において、男子サッカーの3位決定戦が行われ、日本に勝利した韓国選手が試合後「独島(日本名は竹島)は韓国領」というプラカードを掲げました。この行為は政治的行為ではないかと日本でも物議を呼びましたが、最近の大会では政治色を意識することはほとんどありません。

しかし今回の平昌大会は過去のオリンピックと比較しても、極めて政治色が強い大会です。「平壌」オリンピックと揶揄されていますが、あながち間違いではなく、北朝鮮によるプロパガンダの大会となるでしょう。大会が開催されれば、メディアが北朝鮮の応援団や選手を大々的に取り上げます。イメージ戦略のために派遣された北朝鮮の応援団や選手もメディアにはフレンドリーに対応するでしょうから、メディアも好意的に北朝鮮を伝えると思います。私達は北朝鮮の思惑にまんまとはめられることになるでしょう。

6.現代オリンピックの課題

現代オリンピックはビジネスとして拡大し過ぎたと思います。2020年の東京オリンピックが直面しているように、今後ビジネスとしてのオリンピックは徐々に縮小していくと思われます。今後はサッカーやラグビーのワールドカップのように、個々の競技でワールドカップが行われ、大会がもっと細分化していくと思います。しかし今後も、オリンピックは権力が国民を騙す手段として、権力のプロパガンダの役割を一層強くしていくでしょう。

そのため、オリンピックを含めスポーツはあくまで「楽しむもの」という意識が大事だと思います。私達はつい無意識にスポーツに対して色々な意味や感情を込めてしまいます。サッカーや野球など、ひいきにしている選手やチームが負ければ腹が立ちますし、落ち込みます。しかし、たかがスポーツだと考えれば、誰も傷つかずこうやってスポーツを楽しめることそれ自体に幸せを感じるかもしれません。

そして、なぜ権力がスポーツを奨励するのか考えるべきだと思います。かつてローマ帝国がローマ市民の不満を解消させるために「パンと見世物」として剣闘士(グラディエーター)という人間同士の殺し合いを奨励したように、権力にとってスポーツには、国民が抱える不満のガス抜きや批判の矛先を逸らせるという役割があります。そう考えると、スポーツに対して過度に期待をせず、感情的にならず、あくまで「楽しむもの」として適切な距離感を保つことが大事な態度だと思います。かつて松岡修造氏が素晴らしいことを言っていました。

「選手の皆さんには、日頃の練習の成果を発揮して、自分の持ってる力を出し切って欲しい」

どうしても私達は「メダル、メダル」と連呼するメディアに便乗し、メダルの獲得数を気にしてしまいます。しかし、日本の選手が自分の好きなことに一生懸命取り組み、自分の能力を発揮できること、それが日本という国の在り方を表現することになります。つまり日本は、国民の一人ひとりの能力を尊重し、個人の自己実現がきちんとできるような国であるのかどうか。それが何よりも大事なことだと思います。

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