中国を知る② 中国の国際関係

前回の記事「中国を知る①中国文明とは何か?では、中国は圧倒的な文明力を背景に「自分たちこそは世界の中心である」という自信とプライドに基づいた中華思想を持っていること確認してきました。

中国は自民族を「華」とし、北方の民族を「狄(てき)」、東方の民族を「夷(い)」、東方の民族を「蛮(ばん)」、西方の民族を「戎(じゅう)」と蔑み、中国という中心から遠ざかれば遠ざかるほど野蛮性が高まっていくという考え方を持っていました。孫悟空が旅を通じて活躍し、様々な妖怪が登場する『西遊記』にも、この中華思想の影響が如実に表現されています。

日本もこういった中国の考え方の影響を受けています。例えば「征夷大将軍」の「夷」ですが、天皇が住む京都から遠い東方に住む野蛮な民族をという意味で「夷(えびす」と呼ばれました。

また戦国時代から江戸時代初期にかけて行われたポルトガルとスペインの貿易も、南の海からやって野蛮な人々という見下す意味を込めて「南蛮貿易」と呼ばれています。個人的に、こういった表現が教科書に載ることは人権教育として、どうなのかなとは思います。

またアメリカのトランプ大統領は、先日の移民政策の会議において、ハイチやアフリカからの移民の受け入れに対して「そんな便所のような国の連中を、なぜ受け入れるのだ(原文は“Why are we having all these people from shithole countries come here?")」と発言し、物議をかもしています。

“shithole"という訳に関しては各メディアがいろいろな表現をしていますが、HNKは「不潔な場所」としていました。これは一種のスラングの表現で「なんてひどい場所」という軽い意味でトランプは発言したと思いますが、侮辱的で差別的な意味合いを含む表現なのでやはり軽率だと思います。

「アメリカン・ファースト」を掲げ、アメリカが世界の中心であり、周辺国は"shithole"である考えるトランプ大統領の思想は中華思想に似ているところがあります。トランプ大統領が中国の習近平国家主席と相性がいいのは必然かもしれません。

では話を中国に戻して、こうした圧倒的な文明力に基づく中国の自信とプライドが、他国と接する時にはどういった態度としてあらわれるのか、今回は中国の国際関係を見ていきたいと思います。

1.「主権国家体制」と「冊法体制」

我々中華こそが「世界の中心」と考える中国は、ヨーロッパのように国際関係(国同士の関係)は対等(平等)な関係であると考えません。ヨーロッパは国家間同士が対等(平等)であるため、ここからがフランスの領土でここまでがドイツの領土であると、国の領域(領土)を国境を引いてはっきりとさせます。

こうした考え方を「主権国家体制」といいます。ルターによって始まった宗教改革はその後、カトリックとプロテスタントで争われた宗教戦争である三十年戦争(1618年)を引き起こしました。この講和条約であるウェストファリア条約において主権国家体制の概念が出来上がりました。自分たちの住む領域はカトリックなのか、それともプロテスタントなのかをはっきりさせるためです。

しかし中国の場合、皇帝が全世界の支配者であると考えているため、国の領域を国境を引いて定めるという主権国家体制の考え方はそもそもありません。

しかし実際問題として、中国が世界全てを直接的に支配することは不可能です。豊かな中国本土に関しては官僚制によって直接支配しますが、直接管理しても採算が合わない貧しい周辺地域には、その地域に住む国王に統治権(支配権)を与えて、間接的に支配しました。これを「冊法(さくほう)体制」と呼びます。

2.琉球王国は薩摩と中国の二重統治だった

現在の沖縄は過去、琉球王国という独立国家でしたが、中国の冊法体制に組み込まれており、中国の子分という立場でした。しかし同時に、江戸時代において琉球王国は薩摩藩による侵攻・支配も受けており、中国と薩摩の二重統治を琉球王国は受けていました。

しかし中国からすれば、琉球は中国が支配している、という形式的な事実がなによりも大事であるため、薩摩藩の存在は黙認していたといいます。このような考え方は国境を明確にし、地域の支配権は誰なのかはっきりさせようとするヨーロッパの主権国家体制の考え方とはかなり異なります。

観光地として有名な首里城ですが、首里城内で最も中心的な建物が「正殿」と呼ばれるところです。南殿は薩摩藩の訪問団の接待に利用され、北殿は中国の使節団を歓迎するための場所となっています。首里城は日本の建築様式で作られた場所や中国の宮廷様式で作られた部屋など、薩摩と中国の訪問のどちらにも対応した構造になっています。

余談ですが、沖縄旅行のお土産として有名な「紅芋」ですが、「紅芋」と「さつまいも」はもともとは一緒の食べ物です。鹿児島の土地はシラス台地と呼ばれ、桜島からもたらされる火山灰が堆積してできた土地ですので、米を作ることができず、薩摩藩は肥沃な土地に恵まれませんでした。

そのため薩摩の琉球統治時代、琉球から持ち込んだ紅芋が薩摩藩の土地でも育てることができると確認できたため、薩摩藩は紅芋の自家生産を始め、この芋を「薩摩の芋」ということで「さつまいも」と名付けました。

3.「冊法体制」と「朝貢貿易」

この「冊法体制」とは「皇帝と土着の支配者が君臣関係を結ぶことによってその地域の支配を認めてもらう」というもので、簡単にいうと親分(中国)と子分(他国)の関係です。

この例を中国(親分)の子分であった琉球王国で見てみるとこうなります。琉球の王様は頭を下げれば下げるほど、貢ぎ物を持っていけばいくほど、親分である皇帝からたくさんの返礼をもらえます。

その量は莫大で事実上、貿易レベルでした。これを「朝貢貿易」と言います。とにかく皇帝に頭を下げれば、自分たちが持ってきた量の10倍以上の返礼を受け取れるのですから、多くの国が中国に頭を下げ(朝貢)に訪れました。たしかに中国は貿易で損をしますが高い経済力を持った中国からすれば朝貢貿易による損失は大した事はありませんでした。

それ以上に、自分たちが世界の中心であるという「中華思想」のプライドを満たすことが、何よりも重要なことだったのです。

日本がまだ倭国とよばれていた時代、卑弥呼は中国の皇帝に頭を下げ、日本の統治を認めてもらう形を取ったため、たくさんの返礼を手にしました。室町時代の足利義満も日本国大王の地位を中国皇帝から形式的にもらい、朝貢貿易の利益で金閣寺を作りました。

また日本にも朝貢貿易に似た文化があります。

例えば義理チョコです。バレンタインのとき、女性は「義理チョコ」をプレゼント(朝貢)します。あくまでも義理チョコなので、女性にはそれ以上の意味はないのですが、上司は自分のプライドを保つため、ブランド品など義理チョコの価値以上のお返し(返礼)をします。

まさに朝貢貿易そのものです。そして、今後この女性が仕事でミスをしたときも上司は大目に見てくれるでしょう。このように見ていくと、義理チョコは非常に実用的です。

4.中国は基本的に日本が嫌い

中国にとって、日本は基本的に「目の上のたんこぶ」のようなうざったい存在であり続けました。7世紀初め、聖徳太子は中国に国書を送り、時の皇帝であった隋の煬帝を怒らせたことは有名です。

その理由は中国との対等な立場を主張し、冊法体制からの自立を主張したためです。そして645年の「大化の改新」、7世紀後半の「乙巳(いっし)の変」によって、天智天皇が即位して「天皇」を中心とした中央集権体制が整いました

秦の始皇帝が中国を統一し、中央集権体制を築いたのは前221年ですので、約800年遅れて日本はやっと中国と同じ土俵に上がれたことになります。そして、この「天皇」という呼称が中国を刺激することになります。

「天皇」という字面は「皇帝」とほぼ同じを意味を指しますので、日本の「天皇」と中国の「皇帝」は対等な存在であることを意味します。日本が「天皇」とはっきり名乗ったことで中国は激怒します。中国が世界の中心で、東方の小さな島に住む野蛮な国王が「天皇」と名乗るなど、中国のプライドが許すわけがありません。

こういった歴史的背景から中国は日本に対して、他の国にも増して敵対的な態度を取るのです。

7世紀の日本において「日本」や「天皇」の呼称が具体的にいつ頃から用いられるようになったのか。また、なぜ日本はあえて中国を刺激するような「天皇」という呼称を使わなければならなかったのかについては、当時の時代背景に踏まえつつ別の機会で考えたいと思います。

5.形式は実質を伴う

中国の国際関係はプライドを重んじ、形式を重視することを確認してきました。

1997年、香港がイギリスから中国に返還されました。しかしこれは形式的で、現在は一国二制度の下、香港には自治が認められています。香港は資本主義を採用していますが、中国は共産党による社会主義ですので、中国と香港では採用している社会システムも違います。

しかし中国は「香港は中華人民共和国の一部」という矛盾した立場を貫いていますが、冊法体制の考え方であれば、琉球王国の場合と同様に「中国の一部」という形式が当てはまります。この形式こそが中華思想にとってなにより大事ことなのです。

中国は形式ばかり重視していると思うかもしれませんが、すべてが形式だけで、中身(実質)を伴わないわけではありません。冊封体制によって、皇帝がその地域を支配する国王に支配権を認めるということは、何か問題があれば皇帝がいざという時に守ってくれるということでもあります。

実際に豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、中国の皇帝は朝鮮に援軍を送っています。豊臣秀吉の朝鮮出兵に関しては「織田信長の革新性④なぜ豊臣秀吉は朝鮮出兵をしたのか?」を見ていただけると幸いです。

また先ほどの義理チョコの話のように、周辺国(部下)は皇帝(上司)に頭を下げさえすれば、こちらが持ってきた何倍もの返礼品をもらえるので、周辺国からすれば朝貢貿易はとても実用(実質)的だったのです。

今回は中国の自信とプライドからくる中華思想に基づいた「冊法体制」を確認し、中国の国際関係を見てきました。しかしこうした中国の自信とプライドをズタズタに切り裂く事態が発生します。アヘン戦争です。

アヘン戦争における中国の敗戦がきっかけとなり、欧州列強が進出して中国を反植民地化していきました。中国は苦難の時代を迎えます。次回はこのアヘン戦争から中国の歴史を見ていきたいと思います。

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