歴史は仕事に使える② トロツキーから学ぶ「真面目さ」の意味
前回の記事「歴史は仕事に使える①坂本龍馬の体格による営業力」では、幕末時代に坂本龍馬の果たした意外な役割を確認しました。
薩長同盟を成立させた龍馬は亀山社中を通じて、アメリカ南北戦争で余った最新の武器を輸入し、薩長連合軍に流しました。幕府軍との武器の性能差は歴然で、薩長連合軍が倒幕を成功させることができた理由には、こうした武器の性能差という背景がありました。そして、龍馬に武器の売買を提案したのが、トーマス・グラバーという商人でした。この時、グラバーはなぜ龍馬を取引の相手として選んだのか、龍馬の体格(身長)がトーマス・グラバーとの交渉において営業力を発揮して、それが結果として倒幕に導いた一つの要因になった、という斬新な説を取り上げました。
今回はロシア革命の立役者であるレフ・トロツキーを取り上げて「交渉力」について考えたいと思いますが、今回の記事の理解を深めるためトロツキーの前に、小村寿太郎について触れたいと思います。
1.ポーツマス会議での小村寿太郎の目的
前回の記事「日露戦争という奇跡」でも取り上げましたが、日露戦争に奇跡的に勝利した日本は、アメリカのポーツマスで講和会議に臨みます。日本の全権は小村寿太郎です。この会議における日本の最重要事項は、朝鮮の支配権をロシアに認めてもらうことです。日露戦争の目的などについては「日露戦争という奇跡」を参考にしてくださると幸いです。小村寿太郎はこのタフな交渉を見事にまとめ上げて当初の目的の達成に成功しました。
しかし日本の大衆はこのポーツマス条約に納得しませんでした。賠償金を得られなかったからです。大衆は「日比谷焼き討ち事件」を起こし、暴動を起こします。しかし繰り返しになりますが、日本政府にとっては朝鮮の支配権を獲得することが、今回の交渉で最も大事な事柄であったため、ポーツマス会議は成功といえますし、小村寿太郎は素晴らしい仕事をしました。間違った判断をしたのは大衆の方でした。
2.大衆にとって重要なことは「他人と同じである」こと
スペインの哲学者であるオルテガ・イ・ガゼットは「大衆」をこのように定義しています。
大衆とは「他人と同じである」ことに、なによりも喜びや安心を得ようとします。ある集団内(社会の中)で、ある問題に直面して、ひとつの解決策(答え)が少しでも力を持つと、大衆はその答えが本当に正しいのかどうか考えもせずに、その答えが自明の心理としてその一つの答えに徹底的に固執します。
大衆は他者と同じであることで安心するためです。その答えに少しでも異論を唱えるものが出ると、大衆はその異論を撤退的に批判(攻撃)し、なかったことにします。「ポーツマス条約で日本は賠償金が得られなかった。日本政府は腰抜けだ」という考え方が社会の中で少しでも共有されてしまうと、大衆はろくに考えもせずに、その考え方に流されてしまいます。
最近では、音楽プロデューサーである小室哲哉氏の不倫疑惑の記事が週刊文春に掲載されました。これを受けて小室氏は音楽活動からの引退を表明し、後味の悪い結末になりました。SNS上では小室氏に同情的な意見が大半を占め、「やりすぎだ」として週刊文春に対する批判が展開されました。以前、タレントのベッキーと人気ロックバンドの「ゲスの極み乙女。」のメンバーである川谷絵音との不倫が報じられたとき、大衆はその報道に狂喜乱舞していたにも関わらず、今度は逆に文春叩きを始めました。大衆は常に非論理的であり、感情的なのです。
3.民主主義は決して万能ではない
現在の私たちの政治システムである「民主主義」とはこうした大衆が政治的実権を握ったシステムです。最近のトランプ大統領の誕生、そしてヒトラーを生み出したのも大衆なのです。民主主義は決して万能な政治システムではないのです。このことを日本の政治家を含め、私たちはもう少し自覚すべきではないかと思います。日本を含め、現在の世界情勢が行き詰っている背景には、政治家が大衆の目ばかりを気にして、思い切った政策を実行できないからです。
イギリスの首相であったウィストン・チャーチルは民主主義について皮肉を込めてこう述べています。
「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」
4.ソヴィエト政権の誕生を誰も喜ばない
前置きが長くなってしまいました(申し訳ありません)。話をトロツキーに移したいと思います。
民主主義社会に生きる私たちは、常に他人の目にさらされており、自分の好きなように生きるのは困難な社会です。常に他人を意識し、自分の行動が他人にどういった影響を与えるのかを考えて行動しなくてはいけません。それは仕事における「交渉」においてもそうです。交渉と聞くと、会社の外部にいる人との間で取引をするだけと思いがちですが、交渉は会社の内部にいる人間とも同時に行っているのです。
あなたが社長ならどちらの社員を交渉役に選ぶでしょうか。(1)喋りが上手く、駆け引きもうまいタイプ、(2)喋りは下手で、真面目で部下に慕われているタイプ、です。
この問題に直面したのはレーニンでした。少し歴史を見ていきましょう。日露戦争後、ロシア帝国は第一次世界大戦(1914年~1919年)に参加します。第一次世界大戦は総力戦と呼ばれ、ロシアはこの大戦で大きく疲弊します。大戦中レーニンはロシアに帰国し、ロシア革命(1917年)を成功させ、ロマノフ朝を崩壊させます。そして世界初の社会主義国家であるソヴィエト(ソ連)政権を建てました。その後レーニンは、第一次世界大戦からの一方的な離脱を表明。革命直後のソヴィエト政権の権力基盤は脆弱で戦争どころではなく、いつ崩壊してもおかしくありませんでした。
ロシア革命で崩壊したロマノフ朝の軍人たちは各地方に散らばり、虎視眈々とソヴィエト政権を攻める準備を進めていました。社会主義革命が自国に影響することを恐れたイギリスなどの資本主義国家は、第一次世界大戦中でドイツと戦っているにも関わらず軍を派遣し、ソヴィエト政権を倒そうとしました。「対ソ干渉戦争(1917年~1922年)」です。
レーニンの部下であり、現場の指揮官であったトロツキーは現場を駆けずり回り、銃弾の中でも先頭に立ち、ソヴィエト軍の士気を高揚させ、極端な物資不足の中でも奮闘していました。しかし、状況は最悪でした。ソヴィエト政権の敵は、ドイツ帝国、元ロマノフ朝の軍人、イギリスやフランスなどの資本主義国家、そして社会主義革命の波及を恐れた日本とアメリカもシベリア出兵を準備しているという情報もあり…まさに四面楚歌の状態でした。
敵が多すぎると判断したレーニンは、敵国ドイツとの戦闘を中止する必要があると考え、講和を結ぶため部下のトロツキーを交渉役に任命しました。このとき結ばれた条約が「ブレスト・リトフスク条約(1918年)」です。ソ連がドイツに対して大幅に譲歩し、ドイツへの領土割譲を認めた条約でした。この条約によってソ連とドイツの戦闘は終結しましたが、あまりの譲歩にソ連国内での反発は必須でした。
5.なぜレーニンはなぜトロツキーを選んだ?
レーニンはドイツとの交渉前にこう考えました。この交渉はソビエト側に不利な結果になることが予想される。ドイツへの大幅な領土割譲を認めざるを得ないかもしれない。つまり交渉は失敗する可能性があります。この失敗を、現場で善戦している部下や国民(大衆)が納得することは難しいだろう。しかし、国民から慕われている(人気のある)トロツキーが結んできた条約ならば、国民は受け入れてくれるだろう。こうレーニンは考え、ドイツとの交渉にトロツキーを選びました。
このレーニンの決断が教えてくれることは、交渉は外部(他国)だけではなく、同時に内部(国内)とも行っているということです。交渉は失敗する場合があります。失敗した場合、社員たちを「あの人が失敗したらしょうがない。次は頑張ろう」と納得させる必要があります。会社(国)の方針に社員(国民)が納得し、今後も気持ちよく働いてもらうことを考えるならば、失敗する可能性も考慮し、喋りは下手かもしれないが、真面目で部下に慕われている社員を交渉の中心に据えるのが正しいことになります。
6.レーニンの死後
ソヴィエト連邦はロシア共産党による一党独裁体制でしたが、レーニンは大衆の心理をきちんと把握し、民主主義の本質を理解していました。ロシア革命を成功させソヴィエト政権が出来きましたが、いつ崩壊してもおかしくない状況の中から一時的であれ大帝国を築けたのは、やはりレーニンの政治的手腕によるところが大きいでしょう。
レーニンの死後、後継者としてトロツキーとスターリンが争い、結果としてスターリンが勝利しました。敗れたトロツキーは国外追放され各地を転々とし、最終的にはメキシコにたどり着きました。そして秘書に頭を殴られ、死亡しました。もしレーニンの後継者としてスターリンではなくトロツキーがなっていたら、ソ連はどういった歴史を辿ったのでしょうか。もしかすると、ソヴィエト連邦は現在でも国家として存続していたかもしれません。
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