中国を知る④ 中国の苦難(2)辛亥革命から中華人民共和国の建国まで
前回の記事「中国を知る③ 中国の苦難(1)アヘン戦争から辛亥革命まで」では、アヘン戦争をきっかけとして、イギリスをはじめとする列強が中国を半植民地化していく歴史を確認しました。イギリスは中国(清)に対して、次々と無謀な要求を突きつけていきます。
しかしイギリスは、インドやアフリカ諸国などに対しては、イギリスが完全に実効支配する植民地経営を行いましたが、中国に対しては「半植民地化」というスタイルを採用しています。
中国における半植民地化というのは、中国の皇帝制(王朝制)という国家の体制は維持しつつ、列強がこの政府を実質的に支配し、自分達の言いなりにさせて間接的に植民地を経営するスタイルです。
なぜイギリスはそういった判断をしたのでしょうか。その理由は、イギリスの中国進出に反対して、中国の農民自衛組織によるゲリラ戦が各地で相次いだからです。アヘン戦争で中国軍が敗走している中、槍など時代遅れの武器を持った多くの農民がイギリスに対してゲリラ戦を展開しました。これを「平英団事件」といいます。
アフリカやインドなどこれまでにイギリス軍が進出した地域で、いきなり民間人が武装して組織的に抵抗してきたことはイギリスにとって初めての経験でした。そのためイギリスは、広大な土地を擁する中国においてはアフリカやインドと同じような植民地支配はできないと判断し、中国に対しては「半植民地化(間接植民地)」を目指すことになりました。
その後の中国の半植民地化の歴史は、前回の記事でも触れました。
アヘン戦争に続いて、アロー戦争(第二次アヘン戦争)によってイギリス以外の国も中国に進出してきました。絶望に陥った中国民衆は宗教に救いを求めます。
1900年には、宗教結社である義和団が反帝国主義運動を起こし、中国に進出した列強に対する反乱を指導します(義和団事件)。清朝もこの反乱に便乗しますが、列強は8か国共同出兵によってこれを鎮圧。反乱を責任を取らされた清朝は北京議定書を結ばれ、これにより中国の半植民地化は決定的となりました。
1.日本の中国進出
日本は義和団事件に対応した8か国共同出兵の活躍によって、列強の仲間入りを果たすことになります。その後、日露戦争(1904年)にも奇跡的に勝利し、朝鮮の支配権と南満州鉄道の施設権を獲得し、本格的に中国進出を加速させていきます。
1912年には辛亥革命によって清朝は崩壊し、共和政である「中華民国」が誕生します。2000年以上続いた皇帝制も途絶えることになります。日本の相手は中華民国(国民党)に移ることになります。しかし、中華民国とは名ばかりで中国全土をまとめる力はありませんでした。
中国各地には「軍閥」と呼ばれる有力者が自前で武器を購入し、軍を組織し、中華民国に抵抗していました。日本史で例えれば、昔の戦国時代のようなイメージ(軍閥=大名)です。列強はしてみれば中国が分裂した状態は願ってもない状態でした。
中国は分裂したままですので自分たちに反抗する勢力は育たない。軍閥は自分たちの武器を買ってくれるので、まさに理想的な状態でした。
1914年には第一次世界大戦が勃発。大戦の戦場はヨーロッパが中心であるため、欧米列強は中国に駐留させていた兵力をヨーロッパに持っていかなくてはなりません。そのため中国に対する兵力は手薄になります。日本はこの隙を狙って、中国大陸への進出を加速させます。
また1921年には「中国共産党」が結成されます。列強から武器を購入する軍閥を駆逐し、さらには中国を分裂状態のままにしている中華民国(国民党)を打倒するためです。いわゆる「国共内戦(共産党VS国民党)」と呼ばれる中国国内の内戦が本格化します。さらに日本も中国侵略を強めてきたため、中国はさらに混乱を極めることになります。
2.初めて経験する持久戦
議会が機能して冷静な判断ができたイギリスは中国の完全な植民地経営を諦め、半植民地化(間接植民地)を決断したのに対して、軍部主導の日本は満州だけでなく中国大陸全土の直接支配という非現実的な計画を立てます。
この計画は最初はうまくいきました。満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)によって、日本は中国の支配地域を拡大していきます。約1年で南京や武漢などの主要都市の支配に成功し、戦争は早期終結するかと予想されました。
しかし、中華民国政府(国民党)は内陸の重慶に拠点を移し、日本への抵抗を続けたため戦争は長期化。中国の広大な土地に苦しむ日本軍はこれ以上の進軍が不可能となり、徐々に持久戦の状況に陥っていきます。さらに共産党と国民党は日本に対抗するため「国共合作」と呼ばれる協力関係を一時的に築き、日本の侵略に抵抗します。
予想外の持久戦で日本の補給は前線まで届かず、前線の舞台は物資の不足に悩まされることになります。このような状況に陥ってしまった理由は、日本の経験値不足にあります。
第一次世界大戦は「総力戦」と呼ばれ、長期間に及ぶ戦争を遂行するため物資の補給を確保し、物資を前線まで運ぶルートを確保することが極めて大事になります。日露戦争を含め日本が今まで経験した戦争は極めて小規模な戦闘(局地戦)でした。日中戦争で初めて総力戦を経験することになったため日本は補給の重要性を理解できていませんでした。
3.総力戦からゲリラ戦へ
中国に駐留する日本兵には一向に補給が届かないため、食料などは現地で調達する必要があります。調達するといっても、略奪するわけですから現地の中国人から反感を買ってしまいます。
こうして中国人の一部は反日化(ゲリラ化)し、日本軍の駐留している場所を襲撃する事件が多発します。民間人になりすまして日本軍にゲリラ戦を仕掛けてくる一部の中国人に対して日本軍は疑心暗鬼に陥ります。
ゲリラ戦とは、本来は兵士ではない民間人などの人間が戦闘に参加してくることを意味します。ある村を通過するとき、普通に畑を耕していた農民がいきなり襲ってくることもあります。ゲリラ戦では敵は軍服を着ていないため、日本軍からしてみれば目の前にいる中国人が敵か味方が分かりません。
混乱した日本軍は目の前にいる民間人を虐殺するしかありませんでした。結果として、中国民衆の反日感情は膨らみ、多くの民間人(中国人)がゲリラ化して日本軍に抵抗しました。
4.南京大虐殺について
こういった背景から、日本軍による中国人への虐殺行為が各地で行われたと言われています。特に有名なのが南京大虐殺で、中国政府は今も声高に日本の残虐さを世界にアピールしています。南京大虐殺について、日本軍が殺害した中国人の数については諸説あります。
中国政府は30万人の民間人が殺されたと主張しますが、これはさすがに多すぎると思います。ただ日中戦争において日本軍の補給ルートは確保されていない状態だったため、日本軍は現地で物資を調達するしかなく、そのために中国人を殺害したことは事実だと思いますので、ここは素直に謝罪するしかないと個人的には思います。
どの地域でもそうですが、自分達と近い国(隣国)同士は基本的に仲が悪いです。中国や韓国が過去の日本の行為を過度に膨張し、日本を非難するのは政治的理由によるものなので、日本としてはあまり感情的な対応をしない方がいいと思います。
無理に仲良くする(近づく)必要もないですし、だからと言って距離が遠すぎても問題なので、日本政府は感情的な世論に流されず適切な距離間を保つ外交をしなくてはいけないと思います。
5.イギリスの判断は正しかった
中国共産党は、反日感情によってゲリラ化した中国人を吸収して戦力を強化しました。共産党は各地でゲリラ戦を指導し、日本軍に抵抗を続けました。結果として、140万人以上の兵士を中国に投入したにも関わらず日本軍は中国を奪うことはできませんでした。イギリスによるアヘン戦争に基づいた「反植民地化」の方針が実証されたのです。
1945年、日本の降伏により第二次世界大戦が終結すると、中国では再び国民党と共産党による国共内戦が再開されます。共産党は日中戦争のときに獲得したゲリラ兵を引き続き指導下に置いたため、戦力を維持することができました。
また国民党の腐敗に不満を感じていた中国民衆の支持も取り付けたことで、国共内戦は共産党が勝利しました。1949年、共産党のリーダーである毛沢東は「中華人民共和国」を建国。敗れた中華民国政府(国民党)は台湾に逃亡しました。
4.「失われた100年」のトラウマ
「中華人民共和国」の前身である中国共産党は、列強(外国)から援助を受けていた軍閥、また中華民国(国民党)を打倒するために結党されました。そのため外国に対する拒否反応が強く、外国と常に衝突することは共産党の結党理念を踏まえると当たり前のことと理解することができます。
アヘン戦争(1840年)から日中戦争終結(1945年)までの約100年間に及ぶ中国の歴史を見てきました。この時期の中国は本当に悲惨な時代であったことは理解して頂けたと思います。
中国の「失われた100年間」を振り返ると、国際協調に欠ける態度や、軍拡を繰り返して軍事衝突も辞さない態度を取る現在の中国の行動は当然です。中国の強圧的な態度の背景には、アヘン戦争から日中戦争までの歴史の深い傷があるからなのです。
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