権力として機能する学校② 教育という名の権力

前回の記事「権力として機能する学校①『監獄』と『身体の支配』では、近代国家(権力)が国民が権力に対して反抗的な行動を起こさないように、どうやって国民を管理しているのかを考えました。キーワードは「監視」と「身体の支配」です。「監視」によって、自らの意志で権力側のルール(規律)に従おうとする個人を育て、「身体の支配」によって国民の行動を管理し、国民の不満の矛先が権力に向かないようにするためです。

権力(国家)に対して疑いの心(反抗心)を持たず、国家に従順な個人を作ること。これが権力の最終目標となります。そしてこの目標は基本的には上手くいってると言っていいでしょう。今日の日本人がいかに権力に従順なのかを示す例があります。「自己責任」論です。

1.自己責任論という国民の権利を奪う論理

2015年1月、イスラム国(IS)は日本人二人を拘束した動画を公開し、身代金を要求するという事件を起こしました。その後1人の日本人は殺害され、要求はヨルダンで収監されている政治犯の釈放に切り替わりました。しかし結果として、残りの一人も殺害され、その殺害シーンがネットで公開されるという痛ましい事件はまだ記憶に新しいと思います。

日本政府はこの事件をすでに2014年10月に把握し、イスラム国から身代金の要求を受けていました。しかし日本政府はこの情報を公開しませんでした。2014年11月には衆議院の解散総選挙が行われ、自民党が圧勝しました。この人質事件は選挙に悪影響を与えるとして、政府によって隠蔽されてしまい、メディアでは報道されませんでした。こうした政府の遅い対応に業を煮やしたイスラム国が、2015年1月に身代金を要求する動画を公開したというのが、この事件の真相です。

この事件を受けて、テレビのコメンテーターなどによって「危険なところに自ら行ったことが悪い」として人質になった二人を批判する自己責任論が展開されました。しかし、この自己責任論とは厳密にいうと間違っています。

「政治・経済」の教科書にも書かれていることですが、近代における法治国家では例外なく「自由権」を認めています。「自由権」とは「国家からの自由」といわれ「国家から制約ないし強制されずに、自由に物事を考え、自由に行動できる」権利のことを言います。つまり「個人の自由」を「国家」が憲法で保障している以上、「個人の自由」による責任を取るのは国家になります。そのためイスラム国によって奪われた、日本人二人の命を救うことができなかった責任は日本政府にあります。自己責任論というのは法治国家では通用しない論理なのです。しかし権力への批判を恐れている日本政府はこの論理を野放しにしているのです。

2.「監視」と「身体の支配」に適した場所

自己責任論のように権力にとって都合の良い論理を、国民はまるで自らが考えように発言し、絶対的に正しい意見だと信じるのでしょうか。なぜ国民は無意識に権力に都合の良い考え方を持つのでしょうか。

その理由は現代の学校にあることを前回の記事で述べました。権力にとって「監視」と「身体の支配」という国民の支配に適切な場所が「学校」になるからです。

少し見ていきましょう。

3.学校とは権力そのもの

まず学校は生徒を分類します。そこには学力による排除や知的障害者の隔離などが含まれます。生徒はテスト(試験)を受けさせられ、学力によって分類され、その学力に適した場所(高校、専門学校、特別支援学校など)にそれぞれ配置されます。

まず「監視」による「規律の内面化」についてですが、学校では、生徒たちを「閉じられた空間(教室)」に置き、そこでは各々の生徒は単なる記号や番号によって登録、管理されます。一日の予定は規則正しく運営され、生徒はルールにきちんと従っているのか、生徒の行動は教員によって常に「監視」されます。生徒はこの規則を疑問を持つことなく従うように強制されます。学校におけるこの繰り返しによって、規律は生徒の身体は刻み込まれていき(規律の内面化)、生徒の精神も無意識に何の抵抗もなく、自ら進んでこの規律を受け入れていくようになります。

次に「身体の支配」ですが、学校現場において、子ども達は教員によって執拗に監視され、一連の動作を強制され、繰り返させられます。毎日規則正しく運営される学校において、例えば授業中は机から動くことを許されず、授業の開始と終了のときには、教員は生徒を起立させてあいさつをさせます。こうした動作の繰り返しによって、教員(権力)に対する絶対的な服従を生徒たちに行わせ、これによって権力に対する従順さを無意識に内面化させることになります。

4.学校は権力に従順な個人を大量生産する

別の例としては、「体育座り」があります。体育の時間には必ずさせられたと思います。これは日本の学校が子どもたちの身体に加えたもっとも残忍な暴力の一つです。両手を組ませるのは、手遊びをさせないためで、首を自由に動かすこともできず、胸部を圧迫するため深い呼吸ができないため、大きな声を出すこともできません。生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体的な姿勢を考え、教員たちはこの座り方にたどり着いたのです。

もっと残酷なのは、この不自然な身体の使い方に、子どもたちがすぐに慣れてしまったことです。この姿勢が「普通」の状態であり、「楽な状態」だと思うようになったことです。権力に支配されることに慣れてしまったのです。

このように、権力は国民の支配に適した場所である学校(教育)を管理することで、学校では教員によって「監視」と「身体の支配」を徹底させます。目的は権力に従順な個人を育てるためです。

5.教育に対する想像力の欠如

こうして見ると、学校がとても暗い場所に見えてきますが、これは学校の存在を権力の側から考えたときに見えてくる一つの側面に過ぎないということです。私も教育に関わる仕事をしていますので、仕事を通じて子ども達からたくさんのエネルギーをもらっていますし、この仕事と巡り合えてとても良かったと思ってます。

ただ問題は教員側にあります。今まで確認してきたように教育には暴力(支配)的な側面があります。この側面をきちんと認識しないと、教員は生徒を間違った方向に導いてしまう可能性があります。

教育は絶対的に正しいとして、現在の教育の在り方(システム)を疑わない想像力が欠如した教員があまりにも多い気がします。根拠のない精神論や体罰などの恐怖によって生徒を支配しようとする能力の低い教員が、子ども達の可能性を無残に潰しているという現状があります。最近では、体罰はできないということで、言葉による暴力、教員という立場を利用した威圧的な態度などが増えています。子どもたちの悲痛な叫びを聞くと、胸が張り裂けそうになります。

6.教育は社会を映す鏡

現在の日本の抱える問題点の原因の多くは教育に行き着きます。教育現場が、体罰や教員による無意味な指導によって、理不尽なことにも我慢し、間違ったことに対して意見を言えない環境に生徒を置き、そうした教育を受けた子ども達が社会に出ていきます。

大企業による不祥事は後を絶たず、都合の悪い情報はとことん隠蔽しようとします。最近の相撲協会の組織としてのずさんさは目を覆うほどです。労働環境を見ても、企業はコスト削減のため極限まで人件費を削り、長時間の労働を強要するブラック企業がもはや常態化しています。倫理的な分野でも、上下関係に基づくパワハラやセクハラなどが行われ、その苦しさから自殺に追い込まれるケースも数多く存在します。

問題の根本は「想像力」の欠如です。本来なら想像力を養うべき教育が逆に想像力を奪っているのです。教員たちが子どもたちの想像力を奪っているのです。

うした事態を受けて、私個人には何もできることはありません。学校が権力によって支配されている以上、権力に従順な個人を育てるという学校の機能は変わらないからです。ニュースや新聞などで教員のブラックな労働環境が明らかになっている以上、若い優秀な人は教員になりたいとは思わないでしょうから、これからも教員の質は下がり続けるでしょう。

今後の教育に希望を持てない結論になってしまい、申し訳ありません。そして身も蓋もない結論でこれもまた申し訳ないですが、これからも自分ができることをコツコツとやっていきたいと思っています。

2020年からの教師問題 (ベスト新書)
石川 一郎
ベストセラーズ
売り上げランキング: 14,750