織田信長の革新性⑥ 家康の権力固め

前回の「信長の革新性⑤徳川家康の改革」では、家康による武士の失業対策を見てきました。

豊臣秀吉による朝鮮出兵の失敗を受けて、家康は武士としての立場は残しつつ、職種の転換によって、武士の失業対策を解決しようとしました。今までは、戦がメインで「身体」を使った仕事をしていた武士を、これからは「頭」を使った事務職に仕事を転換させました。

家康は、これからは戦ができないような職業に武士を転職させていきました。こうした政策によって戦が起こる原因を少しずつ排除していきました。そして家康が直面した問題は、戦がなくなった平和な社会を長期的にどのように構築するのか、ということです。

信長と秀吉の失敗を見てきた家康は、二人とは違う発想で新しいアイデアを考えていきます。そのアイデアを今回は確認していきたいと思います。

1600年、関ヶ原の戦いで勝利したことを受け、家康は征夷大将軍を天皇からもらい、江戸幕府を成立させます(1603年)。

このとき、家康が直面した問題は大名の反乱をどのように防ぐのかということです。征夷大将軍になったものの、自分の権力基盤は脆いことを家康は自覚していました。関ヶ原の戦いで石田三成側につき、領土を大きく削減された大名もおり、徳川家に復讐しようとする大名はたくさんいるような状態です。

1.そもそも征夷大将軍とは何か?

征夷大将軍というのは、もともと宗教と政治の両方の存在を兼ねていた天皇が、軍事組織のトップに政治(軍事)的実権を委任した際に用いられた役職です。天皇は宗教的権威で、将軍は政治(軍事)的権限を獲得することを意味しています。こうした二元統治体制というのは世界史でもよくあることです。

キリスト教の場合、ローマ教皇と皇帝の関係性です。

395年、ローマ帝国は東西に分裂します。このあと476年に、西ローマ帝国は滅亡します。原因はゲルマン民族の侵入です。西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン民族の国が割拠しますが、最終的に西ヨーロッパを統一したのはフランク王国でした。

800年、ローマ教皇であるレオ3世はフランク王国のカール大帝にローマ皇帝の冠を授けました(ローマの戴冠)。これは宗教的権威であるローマ教皇が政治(軍事)的権限を皇帝に与えたこと意味します。

イスラム教ではカリフとスルタンです。

イスラム教の成立からカリフはムハンマドの後継者として、宗教と政治の実権を握る存在でした。しかし11世紀、アッバース朝のカリフが、当時力を付けきたセルジューク朝にスルタンという称号を与えたのが、イスラム世界での二元統治体制の始まりであるとされています。

カリフが宗教的権威で、スルタンが政治的権限を持つという関係です。その後、イスラム世界を支配したオスマン帝国は、オスマン皇帝一人がカリフとスルタンの両方を兼ねるスルタン・カリフ制を導入することになります。

2.家康は朱子学を導入し、自らの権力基盤を固めた。

織田信長は天皇から距離を取りすぎた結果、本能寺の変によって保守派により潰されました。豊臣秀吉は征夷大将軍にはならず、天皇との関係性を重視したため、関白に就任しました。しかし逆に、朝廷との距離が近すぎた結果、他の武士から疎まれる結果になってしまいました(詳しくは「織田信長の革新性③豊臣秀吉の課題とは?」をご覧ください)。

こうした過去の失敗をみてきた家康は、天皇家との関係をしくじることは自分の権力を失うことになることを強く学びました。信長や秀吉の失敗を見てきた家康は新しいアイデアを考えました。家康は自らの幕府を盤石なものにするためには、幕府に対して絶対的な忠誠心を植え込むことが必要であると考え、それを「道徳(倫理)」によって基礎づけようとしました。

家康は儒学的な考えを取り入れ、そして当時中国で研究が盛んであった「朱子学」を導入しています。朱子学は、中国王朝が宋の時代に朱熹(しゅき)という学者が大成させた学問です。なぜ朱子学という学問が出来たのか、そこには宋が受けた屈辱的な経験があります。

3.朱子学が生まれた宋の屈辱的な歴史

中国の王朝の宋は北宋と南宋の時代に分けられます。

北宋の時代、北宋は多くの遊牧民によって領土を侵害され、屈辱的な講和を結ばされました。契丹(きったん)族の遼という国とは「澶淵の盟(せんえんのめい)」という講和を結び、毎年北宋は銀と絹を遼に送ることになりました。この時点で世界の中心である中国が、野蛮な民族に贈与することなど中国のプライドが許しませんが、それを認めたということは北宋が相当に弱かったことを証明しています。

その後、北宋は女真族の金という国と協力し、遼を滅ぼします。しかし今度は他の民族と協力し、金を潰そうとします。激怒した金は北宋の首都・開封を攻め、北宋を滅ぼしました。これを「靖康(せいこう)の変(1126年)」と言います。

さらに金は北宋の皇帝や皇帝の親族を拉致し、金に連れ去りました。拉致された皇族の女性たちは、金の上流階級の男たちを相手にする娼婦をさせられたりしました。金に連れ去られた皇族は二度と故郷に帰ることはできませんでした。

靖康の変の後、北宋の皇帝の息子たちが中国南部に逃れて建国したのが南宋(1127年)です。南宋は金と和睦を結び、しばらくは辛うじて存続しますが、その後モンゴル帝国のフビライ・ハンに滅ぼされ、中国王朝はモンゴル民族が支配する「元(1271年-1368年)」になります。

このように宋は、中国王朝の中で一番と言ってもいいほど弱く、プライドがズタズタにされた王朝でした。こうした背景から朱子学は生まれました。中国には「中華思想」という高いプライドがあります。(中華思想に関しては「中国を知る② 中国の国際関係」をご覧ください。)

中華思想はあるものの現実問題として宋は弱い。この傷ついた中華思想の自尊心(プライド)をなぐさめるために作られた学問が朱子学でした。朱子学とはこういう考え方です。

「契丹族や女真族などの野蛮な民族は軍事力では中華(中国人)より勝るが、文明度の高さにおいては、中華がはるかに勝っている」と主張し、中国人は世界でもっとも優秀な民族であるとしました。そのため、朱子学には中国人を特別に美化し、中国以外の遊牧民など他の民族見下そうとする排他的な部分があります。

4.儒学に基づいた身分制度

家康をこの朱子学の要素を取り入れて、主人(天皇)に対して絶対の忠誠を誓う道徳観を作りました。この朱子学を日本風にアレンジするとこのようになります。

天皇とは日本において最も優秀な存在である。そのために私たちは、天皇に対して絶対的な忠誠を誓うのである。その天皇に認められた徳川幕府に反抗を起こすことは、天皇をも否定することになる。家康はこのように朱子学をアレンジし、幕府に反乱を起こすことは「悪」という空気(道徳)を醸し出そうとしたのです。

朱子学のルーツは儒学ですが、儒学は「古いものを大事にしよう」と考える思想であることは、前回の記事「貴乃花親方は秦の始皇帝?」で確認しました。家康は古くから日本を支配する天皇を頂点とした身分制社会(士農工商)を作りました。

この身分制度の目的は、戦国時代に主流になった仏教的な考えを一掃しようという目的もあります。仏教から派生した考え方に「下剋上」があります。社会的に身分の低い者が、身分が上の者を実力で倒すことは正しいことで、力のあるもの(実力)がすべてを決定するという考え方です。中国の「易姓革命」にも通じるものがあります。

信長や秀吉はまさに下剋上の思想を体現するような存在です。家康は日本に儒教的な道徳観を新たに持ち込み、こうした実力至上主義の考え方を改めようとしました。つまりは「身分な上の者に文句は言わず、上のために動け(働け)」というもので、今の日本社会に蔓延している考え方です。

5.暴力を助長するものは徹底的に排除する

天皇を頂点とする身分制社会(階級社会)は、「神の前では皆平等」であるとするキリスト教とはまったく相対する考え方です。平等であるなら、人は好き勝手に幕府に文句(反抗)を起こしていいことになります。そのため、家康は身分制社会との相性が良くないキリスト教の迫害を行いました。信長の時代には認められていたキリスト教の布教は江戸時代では禁止され、厳しく弾圧されました。

家康の政策を簡単に見てきました。家康の政策は「いかに暴力がない世の中を構築するのか」という点で一貫していると思います。信長や秀吉の時代は戦ばかりの時代で、人殺しも当たり前の時代でした。そうした時代を終わらせ、どうすれば戦のない平和な世の中を作ればいいのか、家康はこの課題を徹底的に現実的になって考え、その原因を一つずつ排除していきました。

また第5代将軍徳川綱吉の政策に「生類憐みの令」があります。これはよく学校でも「なぜ、こんなバカな政策を考えたんだ」として、教員が生徒から笑いも取るためのネタとしてよく使われます。しかし、今まで確認してきた視点から見ると、綱吉の意図が分かります。

戦国時代は人殺しなど暴力が当たり前の風潮でした。そうした暴力的な風潮を変えるため、「人殺しはいけない」という倫理観を庶民に持たせるためには、命を大切にする価値観を持たせなくてはいけません。そのためには少し極端と思えるようなルールを設定して、強引に庶民の思想を変えるしかありません。このような背景から綱吉は「生類憐みの令」は出されました。決して愚かな政策ではないのです。

6.現代の日本は家康が作った

今の日本社会は家康が作ったと言っても過言ではないと思います。日々の生活でも日本人は争いを好みませんし、別に自分が悪いことをしていなくてもすぐに謝ります。私もすぐ謝ります。場の空気を壊すことは極力避けられ、他者との調和が重んじられます。教育現場でも、職場でも上司(教員)に文句を言うことは許されない空気があります。

「空気を読む」というのは極めて日本的な表現だと思います。しかし今の日本社会において、空気を読むことが、改革を妨げて現状を維持することに結び付いており、明らかに時代に合わない多くのシステムが手付かずのまま残っています。こうした保守的な日本文化は大きな問題だと思います。

家康が生きた時代には儒教的な考えは必要だったかもしれません。しかし現在ではその儒教を背景として出来たシステムは様々な分野で問題を引き起こしています。

7.儒教は過去を隠蔽しようとする?

例えば、学校法人「森友学園」への国有地売却問題では、政府は都合の悪い情報をひたすら隠蔽しようとしています。

公文書を「私的メモ」だと主張したり、「(公文書だと)確認できない」と繰り返し、さらに「怪文書だ」と言い出しました。誰がどう見ても公文書だとわかるものを、政府が認めずに平然と嘘を付いているのです。最近では財務省による公文書の書き換えの疑惑が持ち上がり、深刻な問題に発展しつつあります。

どの国においても政治家や企業の経営陣は、政府や企業を守ろう(現状を維持しよう)とします。しかし、どんなに組織が間違っていても、最後の最後まで隠蔽がバレないように必死になって努力するこの国の社員(官僚)の姿は滑稽にすら見えてします。

どんなに間違っていても組織にしがみつこうとする体質は、儒教の国に多いのは事実だと思います。

南京大虐殺では、日本の残虐性を世界中に訴える一方で、中国国内で天安門事件のことをインターネットで調べても、その情報は全てシャットアウトされ、一切知ることはできません。

いつまで経っても慰安婦問題で日本に謝罪を要求する韓国も、ベトナム戦争の際、韓国軍兵士が行ったベトナム人女性に対する集団強姦事件については一向には触れようとしません(ライダイハン問題)

繰り返しになりますが、儒教は「古いものを大事にしよう」という考え方があります。これが目上の人、年上(先輩)を大事にしようという思想に繋がります。そのため儒教は過去の先輩(先祖)の失敗を隠そうとします。

私たちはそろそろ家康の呪縛を説く必要があるのではないでしょうか。

江戸の朱子学 (筑摩選書)

江戸の朱子学 (筑摩選書)

posted with amazlet at 18.03.07
土田 健次郎
筑摩書房
売り上げランキング: 127,756