伊勢ヶ濱一門と構成する5部屋の紹介

BBM2013大相撲カード/レジェンド-GLORY-■レギュラーカード■07/旭富士/横綱

はじめに

一般的に一門の意味合いとしては同族の集団を指すことが多いですが、相撲界における一門は相撲部屋の系統ごとにおける人脈的派閥を指し、隔年で開催されている日本相撲協会の理事選挙の際に代表者を選んで投票するなどの繋がりがあります。

現在、一門は6つありますが、その中で伊勢ヶ濱一門は伊勢ヶ濱部屋、友綱部屋、宮城野部屋、浅香山部屋、朝日山部屋の5つの相撲部屋で構成されます。

伊勢ヶ濱部屋の紹介

まず、一門の名前にもなっている伊勢ヶ濱部屋について紹介します。

現在の伊勢ヶ濱部屋は元大関旭國関が師匠を務めていた当時の大島部屋に入門し、第63代横綱として、幕内の土俵で4回の優勝を収めるなど、昭和60年代から平成初期にかけて活躍した旭富士関によって作られました。

この旭富士関は体の柔らかさなどから、津軽なまこや津軽のプリンスと呼ばれており、昭和56年初場所に20歳で入門してから、右四つに組んでから寄り切ったり、すくい投げなどの投げ技で仕留めたりするなどの強みを活かして、入門から10年半ほどかけて横綱に昇進した力士でした。ちなみに旭富士関が平成に入って最初の横綱となっております。

旭富士関は、この四股名を残したまま引退して1年間は大島部屋で後進の指導に当たっていましたが、今から25年前に、同じ青森県出身の元関脇陸奥嵐関が師匠を務めていた安治川部屋を継承する形で師匠としてのキャリアを積み始め、平成20年初場所前に年寄名跡を伊勢ヶ濱に変更したことによって部屋の名前も伊勢ヶ濱部屋に変わりました。後に第56代横綱若乃花関が師匠を務めていた間垣部屋と元大関大受関が師匠を務めていた朝日山部屋を吸収して現在に至ります。

伊勢ヶ濱部屋があるのは東京都江東区で、錦糸町駅と住吉駅の中間あたりに位置し、周辺には猿江恩賜公園や首都高速7号線などがあります。両国国技館にも徒歩30分ほどで行くことができます。

現在、伊勢ヶ濱部屋には関脇以上の番付を経験したことがある宝富士関、照ノ富士関、安美錦関の3人と誉富士関、照強関の計5人の関取が在籍しています。このうち照ノ富士関は若三勝として間垣部屋から転入してきた力士ですが、半年前までの2年間大関を経験し、大関に昇進する直前に幕内最高優勝も果たしている実力者です。今場所は、このうち宝富士関が幕内上位で相撲を取ります。さらに去年まで、幕内最高優勝を9回果たすなどして活躍した第70代横綱日馬富士関も17年間力士として在籍していました。

友綱部屋の紹介

次に、現在の友綱部屋は先述した当時の大島部屋に入門して、モンゴル出身力士のパイオニアとして23年半も土俵に立ち続け、40歳代でも幕内で活躍するなどして活躍した元関脇旭天鵬関が師匠を務めている部屋です。

この旭天鵬関は、右四つに組んでから寄り切るなどの寄りを強みにして入門して6年で幕内に昇進すると、21世紀に入ってから幕内上位の番付にほぼ定着する実力を示すようになり、敢闘賞を7回獲得したり、関脇などの三役を12場所も経験したりする活躍をし、37歳で迎えた平成24年夏場所には12勝の好成績で春日野部屋所属の栃煌山関との決定戦を制し唯一の幕内最高優勝を果たしました。ちなみに最後の敢闘賞は40歳だった平成26年九州場所で10勝を収めて獲得しており、40歳代で唯一の三賞受賞者としての記録をつくりました。このことから角界のレジェンドというあだ名がつけられたほどです。

旭天鵬関は、現役を引退した後は優勝する直前に移り、元関脇魁輝関が師匠を務めていた当時の友綱部屋に大島親方として後進の指導に当たりました。去年の名古屋場所前に魁輝関が定年を迎えることによって年寄名跡を交換する形で友綱部屋を継承して現在に至ります。

友綱部屋があるのは、両国国技館がある東京都墨田区で観光施設として知られている東京スカイツリーの南に位置しており、周辺には兼平公園や四ッ目通りなどの大通りがあります。両国国技館には徒歩30分で行くことができるほどの距離ですが、電車を使えば最寄りの半蔵門線押上駅から乗り換え1回で行けたり、都営バスで乗り換えなしで行くこともできたりします。

現在、友綱部屋には、幕内において関脇まで昇進したことのある魁聖関、十両において旭秀鵬関と旭大星関の計3人の関取が所属しています。このうち旭大星関は、この春場所で北海道出身として久しぶりの新入幕が果たせるかが注目されている力士です。また、幕下には旭日松がいますが、去年までは5年半にわたって安定して関取を務めており、前頭11枚目まで昇進した経験を有しています。

宮城野部屋の紹介

続いて現在の宮城野部屋は元小結廣川関が師匠を務めたころに入門し、体重が120kg程度の小柄にも関わらず廻しを取らずに攻めていく突き押し相撲を強みにして昭和の終わり頃に十両の番付を中心に活躍した竹葉山関が師匠を務めている部屋です。

この竹葉山関は、伊勢ヶ濱部屋での猛稽古などで力を蓄えるなどで力をつけていき、入門して11年で関取の座に定着できるほどになりました。それから5年間は十両の土俵で活躍し、うち昭和61年度には2回の入幕を経験することもできました。

竹葉山関は年号が平成になった場所の途中で現役を引退して半年弱を中川親方として後進の指導に当たりましたが、先述した師匠が急逝したことによって部屋を継承して現在に至ります。ただし当時の北の湖部屋で4年ほど関取として活躍した後に現役を引退した直後の金親関に約6年半の間師匠の役割を譲った時期もありました。

宮城野部屋があるのは、友綱部屋と同じ東京都墨田区内ですが、旧中川や荒川などの河川に近く、周辺には商業施設や明治通りなどの大通りがあります。両国国技館へは最寄り駅の曳船駅から乗り換え1回で凡そ25分かかる距離にあり、少々遠いところにあることになります。

現在、宮城野部屋には幕内最高優勝40回や通算1066勝等の大記録を次々と塗り替えており、平成の大横綱の1人に数えられている第69代横綱白鵬関を初め、幕内には師匠と同じく小兵力士の1人として活躍している石浦関、十両には入門して丁度1年で新十両に昇進した炎鵬関の計3人が関取として所属しています。

浅香山部屋の紹介

現在の浅香山部屋を誕生させたのは、平成の大横綱の1人である第65代横綱貴乃花関や第64代横綱曙関などと共に「花のロクサン組」の1人として、今から丁度30年前の春場所に元魁輝関が師匠を務めていた頃の友綱部屋に入門し、平成1桁代から21世紀にかけての角界を盛り上げた元大関魁皇関です。

この魁皇関は握力と腕力の強さを活かして左四つに組んだ後、右手からの小手投げや同じ側から上手を取って投げたり、寄り切ったりすることを得意にしており、入門して4年弱で関取の座を掴むことができ、この1年半後に新入幕を果たすと程なくして幕内上位の番付に定着し、貴乃花関らから6個の金星を獲得したり三賞に15回輝いたりする実績を残しました。28歳の時に、大関に昇進すると最終的に幕内最高優勝に5回も輝いたり、白鵬関に抜かれるまでは歴代1位の通算成績で1047勝の成績を収めたりする活躍を見せました。魁皇関は旭天鵬関と同じく23年半に渡って現役を続けた後、浅香山親方として友綱部屋で後進の指導に当たったのち、今から丁度4年前に独立して浅香山部屋を誕生させました。

こうして誕生した浅香山部屋は東京都墨田区内に部屋を構えており、繁華街の1つである錦糸町に近く、周辺には首都高速や国道14号線などの大きな道路があります。両国国技館へは徒歩20分ほどで行くことができるところに位置しており、両国界隈の相撲部屋の1つといえます。

現在、浅香山部屋には関取はいませんが、幕下15枚目以内に魁勝が関取を目指して相撲を取り続けており、彼を筆頭に若い11人の取的たちが関取に昇進できるかが楽しみな部屋の1つです。

朝日山部屋の紹介

現在、朝日山部屋が伊勢ヶ濱一門の中では最も新しく誕生した相撲部屋となっており、これを誕生させたのが、第53代横綱琴櫻関が師匠を務めていた頃の佐渡ヶ嶽部屋に入門し、廻しを取らずに高速での突き押し相撲を得意したことでF1相撲とも呼ばれて平成1桁の頃の幕内を盛り上げた元関脇琴錦関です。

琴錦関は入門5年余りで新入幕を果たすと、1年ほどで幕内上位の土俵に定着し、2回の平幕での幕内最高優勝に輝いたり、三賞を18回獲得できたりするなどの活躍を示しました。この他にも関脇と小結の三役を34場所務めたり、金星を8個獲得したりする実力を有しており、複数回にわたって大関候補の1人として有名になったこともありました。

琴錦関は年寄株を複数回借りながら佐渡ヶ嶽部屋と元大関琴風関が起こした尾車部屋で後進の指導に当たったのち、一昨年の初場所頃に正式に年寄株を獲得でき、名古屋場所前に朝日山部屋を興しました。株を獲得して丁度1年後に所属も二所ノ関一門から伊勢ヶ濱一門に変更されて現在に至ります。

朝日山部屋があるのは千葉県鎌ケ谷市の住宅街で、松戸市に近いところに位置しています。両国国技館へは最寄り駅のくぬぎ山駅から最低3回の乗り換えで1時間ほどかかり、かなり遠い距離にあることになります。

現在、朝日山部屋には関取はいませんが、幕下中位に部屋頭の朝日龍がおり、計6人の取的が関取を目指して稽古に励んでおり、関取誕生が期待される部屋の1つです。

伊勢ヶ濱一門に関する歴史と伝統とは

現在は5つの部屋で構成されている伊勢ヶ濱一門ですが、この一門の特徴としては縁が異なる相撲部屋が離合集散してできたということが挙げられます。例えば、一門の名前も時代によって変わっており今の名称になったのは5年半ほど前の事で、それまでは長い間立浪・伊勢ヶ濱連合という名称で親しまれていました。ちなみに、ここでの「伊勢ヶ濱」は大正から昭和初期に活躍した元関脇清瀬川関が興した伊勢ヶ濱部屋をルーツとした系統であり、現在の伊勢ヶ濱部屋とは異なるものです。その伊勢ヶ濱部屋は今から11年前、昭和40年代に関取として活躍した和晃関が定年退職などで師匠を続けられなくなったことにより閉鎖されました。

このような伊勢ヶ濱一門のルーツは明治時代の終わりに春日山部屋所属として活躍した元小結緑嶌関が興した立浪部屋となっています。これに先述した伊勢ヶ濱部屋、共に大正時代を中心に活躍した力士で、若松部屋所属の元幕内八甲山関が興した高島部屋と大阪相撲という相撲協会が東京で一本化される前の組織で大関まで昇進した鉄甲関が継承した朝日山部屋を加えた4つの相撲部屋を核として歴史を紡いできたという経緯があります。

直近10年間の伊勢ヶ濱一門に所属する部屋の遷移

このように一門の構成が変化している伊勢ヶ濱部屋一門ですが、今から10年前の平成20年地点では浅香山部屋が誕生する前だったため、4部屋でしたが、これに加えて立浪部屋所属で平成時代の初期に幕内で3年半ほど活躍した元前頭大翔山関が師匠を務めている追手風部屋、熊ヶ谷部屋を中心に所属し、昭和50年代から60年代にかけて幕内の土俵を盛り上げた元関脇高望山関が師匠を務めていた高島部屋、大島部屋所属で平成1桁の頃を中心に活躍した元小結旭豊関が師匠を務めている立浪部屋、伊勢ヶ濱部屋所属で昭和50年代を中心に活躍した元小結黒瀬川関が興した桐山部屋、安治川部屋所属になってから7年半ほど幕内の番付で活躍した元前頭春日富士関が師匠を務めていた春日山部屋も所属していました。なお、この当時の朝日山部屋の師匠は高島部屋所属で昭和40年代から50年代にかけて活躍した元大関大受関で、今の系統とは異なります。

平成23年に所属力士が少なくなったことなどから、桐山部屋と高島部屋が閉鎖され、他の部屋に吸収されました。その翌年には、立浪部屋が貴乃花一門に移り、名称が今の伊勢ヶ濱一門になる機会になりました。さらに一昨年には追手風部屋と春日山部屋が時津風一門に移ったことにより、現在の部屋の構成になっています。

まとめ

このように、伊勢ヶ濱一門は今から100年ほど前に誕生した4つ相撲部屋を核として連合という形で存在したものの、近年になって今の一門の形を成しているといえると思います。