貴乃花一門と構成する5部屋の紹介
はじめに
一般的に、一門の意味としては同族の集団の事を指すことが多いですが、角界における一門とは相撲部屋の系統ごとの人脈的派閥を指し、日本相撲協会の理事会などの際に、この単位で投票行動がなされるなどの繋がりがあるとされています。
現在、一門は6つありますが、その中で貴乃花一門は貴乃花部屋、大嶽部屋、阿武松部屋、立浪部屋、千賀ノ浦部屋の5つの相撲部屋で構成されています。
貴乃花部屋の紹介
まず、一門の名前にもなっている貴乃花部屋から紹介したいと思います。
貴乃花部屋は今から丁度30年前に、兄の第66代横綱若乃花関と共に父親の元大関貴ノ花関が師匠を務めていた当時の藤島部屋に入門し、第65代横綱として平成1桁の頃を中心に活躍し、一大フィーバーを興したとされている貴乃花関が師匠を務めている部屋です。
この貴乃花関は幼いころから相撲一家の中で育ったことや中学生のころまでに肩幅が広いなど体格に恵まれていたことで、入門して早い段階で右四つに組んでからの寄りを中心とする強みを獲得して僅か2年弱で関取に昇進し、その丁度4年後には横綱に昇進した力士でした。ちなみに18歳になる直前には新三役に昇進するなどの昇進スピードの速さは当時話題になったほどでした。
貴乃花関は、優勝22回の記録を残すなど平成の大横綱の1人とされるほどの好成績を収めたことなどから、一代年寄を送られたことで、現役を引退後も貴乃花親方として二子山部屋に残って後進の指導に当たっていましたが、約1年半後の平成16年名古屋場所前に部屋を継承する形で師匠としてのキャリアを積み始めました。先述した一代年寄の権利を用いる形で部屋の名前も貴乃花部屋に変わりました。
貴乃花部屋があるのは、東京都江東区ですが、荒川に近い比較的千葉県寄りに位置し、対岸には首都高速中央環状線が走っています。周辺にはスーパーや図書館などがあります。両国国技館ヘは最寄り駅の南砂町駅から乗り換えを含めて50分ほどかかり、江東区内でもやや遠いところに部屋があるといえると思います。
現在、貴乃花部屋には、幕内で小結の三役を経験したことのある貴景勝関が所属し、十両で貴ノ岩関、貴源治関、貴公俊関の3人が所属しており、計4人の関取が在籍しています。このうち十両の貴源治関と貴公俊関は史上初の双子の関取であり、今年の春場所で貴公俊関が関取に昇進したことによって当時話題になりました。
大嶽部屋の紹介
次に、現在の大嶽部屋は優勝32回の大記録を打ち立てるなどしたことにより、昭和の大横綱の1人とされている第48代横綱大鵬関が一代年寄として興した大鵬部屋に入門して、昭和の終わりから平成1桁にかけて通算4年余り関取として土俵に立つなど活躍した元十両大竜関が師匠を務めている部屋です。
この大竜関は、左四つに組んでから寄り切るなどの寄りを強みとして番付を上げていきましたが、関取に昇進するまで幕下に定着してから7年、入門してから丸12年を有するなど遅咲きの方にあたる力士でした。最高位は東十両4枚目で、一度幕下に陥落したこともありましたが、再び昇進した後でも1年余り定着するほどの実力を示しました。
大竜関は現役を引退後、年寄名跡を3回借りるなどする生活を13年間送っていましたが、その間に大鵬部屋に残って後進の指導に当たったり、取組の決まり手を決めたり、力士が入門した際に半年ほど通う相撲教習所の講師を担当したりする活動を熟していました。その後、先述した藤島部屋に入門し、貴乃花関が活躍した時期と同じころに幕内上位の土俵に定着するなどして活躍した先代師匠にあたる元関脇貴闘力関が問題を起こして協会を去ったことなどから、平成22年名古屋場所前に部屋を継承して現在に至ります。ちなみに現役を引退して6年半後に先述した元関脇貴闘力関に師匠が交代したことによって部屋の名前が大鵬部屋から大嶽部屋に変更されています。
その大嶽部屋があるのは、貴乃花部屋と同じ東京都江東区ですが、隅田川や清澄庭園に近い区の西側に位置しており、周辺には深川稲荷神社や大通りがあります。両国国技館へも最寄り駅の清澄白河駅から乗り換えなしの2駅で行くことができる距離であり、国技館周辺に点在している相撲部屋の1つとされています。
現在、大嶽部屋には関取はいませんが、13人の取的といわれる幕下以下の力士が所属しており、関取を目指して稽古に励んでいます。その中にはかつて序ノ口で40近くも連敗するなどして有名になった森麗や先述した大鵬関の孫で、かつ元貴闘力関の息子である納谷が所属するなど話題性がある力士が度々入門する傾向にあるのではないかと思います。
ちなみに、今年の初場所までは唯一のエジプト出身力士で2年半近く幕内に定着するなどして活躍し、三役一歩手前まで昇進したことのある元大砂嵐関も在籍していました。
阿武松部屋の紹介
次に、現在の阿武松部屋を誕生させたのは、戦時中から終戦後の頃を中心に活躍し大関まで昇進した経験がある元佐賀ノ花関が興した二所ノ関部屋所属で、主に麒麟児として昭和40年代を中心に活躍した元大関大麒麟関が師匠を務めていた当時の押尾川部屋に入門して昭和60年代から平成初期にかけて活躍した元関脇益荒雄関です。
この益荒雄関は右四つに組んでから寄り切ったり、右の下手から投げたりすることが得意で、入門して4年半ほどで関取の座に定着するようになり、その4年後には関脇を経験するなど半年間、三役の番付で相撲が取れるほどの実力を有した力士でした。ちなみに、その頃に九重部屋所属で昭和の大横綱の1人とされている第58代横綱千代の富士関のあだ名に因んで白いウルフのあだ名がつけられて有名になったとされています。
益荒雄関は現役を引退後、錣山親方として2年余り押尾川部屋に残って後進の指導に当たっていましたが、その後、大鵬部屋に移籍し、部屋付き親方としてさらに2年ほど経験を積んでから阿武松部屋を誕生させて現在に至ります。
阿武松部屋があるのは、千葉県習志野市で京葉道路の幕張インターチェンジの近くに位置しており、間近くにある国道14号線を少し歩けば千葉市内に入ることができます。周辺には小学校などの教育機関や住宅が点在しています。両国国技館へは最寄り駅である幕張本郷駅から40分ほどかかるなど、少し遠い距離にありますが、乗り換えなしで行くことができます。
現在、阿武松部屋には、幕内で阿武咲関が唯一の関取として所属しており、今年の初場所までの2場所連続で小結に昇進したこともある若手力士です。ちなみに現在は、いずれも幕下の番付で相撲を取っている慶天海と阿夢露も関取の番付に昇進して活躍した実力を持っており、特に阿夢露は幕内の土俵を1年半ほど経験したこともあります。
立浪部屋の紹介
続いて、現在の立浪部屋は元大関旭國関が師匠を務めていた当時の大島部屋に入門して1990年代後半を中心に幕内の土俵で活躍した元小結旭豊関が師匠を務めている部屋です。
この旭豊関は左四つに組んでから寄り切りの寄りや右の上手を取って投げる投げを強みにして、入門して8年後に新入幕を果たして以降、引退するまでの4年間幕内に定着するほどの実力を有し、金星を4つも獲得したり、三役を1回経験したりするなどの活躍を示した力士でした。
旭豊関は現役を引退してすぐは、この四股名のまま親方として後進の指導に当たっていましたが、立浪三羽鳥の1人として先述した大麒麟関が活躍した頃を中心に活躍し第36代横綱まで昇進した羽黒山関が師匠を務めたころに入門し、安念山として7年ほど幕内上位の番付に定着するなどして昭和30年代の幕内の土俵を盛り上げた後に師匠を同じ四股名を継承し、引退して5年後には部屋も受け継いだ元関脇羽黒山関の娘と幕内で活躍していた頃に結婚したことなどから、引退して1か月後の平成11年春場所前に部屋を継承して現在に至ります。
その立浪部屋があるのは、茨城県つくばみらい市で、昔の伊奈町と谷和原村の境界付近に位置しており、周辺は陽光台として住宅街や商業施設が点在しています。両国国技館へは最寄りのみらい平駅から乗り換え1回で70分ほどかかる距離にあり、相撲部屋の中でもかなり遠いところに部屋を構えていることになります。
現在、立浪部屋には十両に明正関が唯一の関取として所属していますが、今年の初場所には天空海も関取を経験し、過去には三段目力士の1人である飛天龍も十両に上がっていました。
千賀ノ浦部屋の紹介
最後に、現在の千賀ノ浦部屋は初代若乃花として春日野部屋所属の第44代横綱栃錦関と共に昭和30年代の角界の一時代を築いたとされている第45代横綱若乃花関が師匠を務めていた頃の二子山部屋に入門し、昭和60年代から平成1桁の頃まで幕内を中心に活躍した元小結隆三杉関が師匠を務めている部屋です。
この隆三杉関は廻しにこだわらずに突き出したり押し出したりする相撲内容を得意にして入門5年後に関取昇進を果たし、この3年後から10年以上にわたり、ほぼ安定して前頭以上の番付に定着する実力を有することができ、この間に小結として三役を2回経験したり、放駒部屋所属で、現在芝田山部屋の師匠である第62代横綱大乃国関から金星を挙げたりする活躍を見せました。ちなみに現役時代は、かつて三保ヶ関部屋の師匠を務めたことがある元大関増位山関と同様に歌の実力が高く、現役時代にCDをリリースしたり、花相撲などの興行で甚句を披露したりするほどでした。
隆三杉関は現役を引退後、藤島親方として二子山部屋に残り後進の指導に当たり、後にお音羽山親方を経て、直近の常盤山親方を含めて通算で20年半以上部屋付きの親方として活動していました。2年前の夏場所前に先述した栃錦関が師匠を務めていた頃の春日野部屋に所属して昭和50年代を中心に幕内力士として活躍した元関脇舛田山関が興した千賀ノ浦部屋を継承する形で師匠としてのキャリアを積み始めて現在に至ります。
その千賀ノ浦部屋があるのは、東京都台東区で隅田川に近く、かつ荒川区へも近いところに位置しており、周辺には多くの寺院とコンビニなどの商業施設があります。両国国技館へは最寄り駅の南千住駅から乗り換え1回で、25分ほどで行くことができますが、その最寄り駅まで徒歩20分弱かかるため、台東区内でも比較的遠いところに部屋があるといえると思います。
現在、千賀ノ浦部屋には十両に隆の勝関が唯一の関取として所属していますが、舛ノ山も今から5年前を中心に幕内などの関取として活躍していた時期がありました。現在は幕下の番付まで戻っています。
貴乃花一門に関する歴史と伝統とは
現在、5つの相撲部屋で構成されている貴乃花一門ですが、この一門の特徴的なこととして6つある一門の中で唯一2010年代に誕生した新しい一門であるということが挙げられます。
貴乃花一門が誕生した発端は今から8年前の平成22年2月の理事選挙をめぐるなかで、貴乃花親方が当時所属していた二所ノ関一門から独特な考えを持っていたことなどの要因で、一門内の慣例などに反して立候補したことが挙げられます。
元関脇貴闘力関の大嶽親方と元関脇益荒雄関の阿武松親方、さらに兄の初代若乃花関が師匠を務めた頃の二子山部屋に所属して第56代横綱まで昇進するなどして昭和50年代の土俵で活躍した元若乃花関の間垣親方の3人も貴乃花親方の考えを指示したことなどから、いずれも所属していた二所ノ関一門から一斉に離脱しました。そして、連合稽古を合同で行うなどするグループを形成して活動を開始しました。
先述した出来事から4年後の平成26年に、協会から助成金を支給されるなどの扱いを受けたことなどから、貴乃花グループが一門に昇格しました。この事から貴乃花一門は貴乃花部屋、大嶽部屋、間垣部屋、阿武松部屋の4つの相撲部屋を核として歴史を作っていることになります。
貴乃花一門に所属する部屋の遷移
このように、正式に誕生してまだ5年目の貴乃花一門ですが、この間にも一門の構成が変わる動きがありました。まず師匠が体調不良などの影響などから、一門が誕生する前の平成25年春場所に間垣部屋は閉鎖されて第63代横綱旭富士関が師匠を務めている伊勢ヶ濱部屋に吸収されました。従って、伊勢ヶ濱一門に吸収されたことになり、間垣部屋は貴乃花一門の構成部屋に含まれなかったことになります。一方、この前年には元小結旭豊関が師匠を務めている立浪部屋が所属していた当時の立浪一門から離脱して貴乃花グループに加わりました。この状態で貴乃花グループが一門に昇格したため、創設時の一門の構成部屋としては貴乃花部屋、大嶽部屋、阿武松部屋、立浪部屋の4つということになります。ちなみに代表格が離脱した立浪一門は現在伊勢ヶ濱一門として活動しています。
貴乃花一門が誕生して以降の動きとしては、今から2年前に、第44代横綱栃錦関が師匠を務めていた当時の春日野部屋に入門して昭和50年代を中心に活躍した元関脇舛田山関から、二子山部屋所属で昭和から平成1桁にかけて活躍した元小結隆三杉関に師匠が交代した千賀ノ浦部屋が所属した出羽海一門からこの一門に加わったことにより、現在の形になっています。
さらに、今年に入って元関脇鶴ヶ嶺関が師匠を務めていた当時の井筒部屋に所属して昭和60年代から21世紀初頭にかけて活躍した元関脇寺尾関が師匠を務めている錣山部屋と元小結豊山関が師匠を務めていた頃に入門して1990年代後半を中心に活躍した元前頭湊富士関が師匠を務めている湊部屋の2部屋がいずれも所属していた時津風一門から離脱しましたが、これが貴乃花親方を指示したことによるものとされており、今後のこれら2部屋が貴乃花一門と関係を築くかどうかが気になるところだと思います。
まとめ
このように現在日本相撲協会にある6つの一門の中で比較的歴史が浅い貴乃花一門ですが、最近になっても一門を構成する相撲部屋が増えたり、離脱したりする動きがあり、今年になっても支持する相撲部屋が現れる動きが見られており、今後も部屋の構成が変わるかもしれないのではないかと思います。
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