信長の革新性⑤徳川家康の改革

前回の記事「信長の革新性④なぜ豊臣秀吉は朝鮮出兵をしたのか?」では、なぜ豊臣秀吉は朝鮮出兵を行ったのかについて考えました。兵士の失業対策として行った朝鮮出兵は結果的に失敗しました。では秀吉の後、天下統一を果たした徳川家康はどのように兵士の失業問題を解決しようとしたのでしょうか。それを考える前に織田信長の政策をもう一度見ていきましょう。

信長以前は兵士とは農民でした。そのため戦争で多くの兵士が死ぬことは農業をする人がいなくなるため、それは同時に国力の低下を意味します。そのため大名は兵士の数を減らさないことをまず第一に考えるため、兵士を数を大きく減らすような思い切った戦争はできなくなります。それに比べて信長は兵農分離、つまりは傭兵制に切り替えたことで、戦争のときに余分なことを考えなくていいため、大胆な戦術を取ることができます。奇襲によって今川義元の首を取り、奇跡的な勝利を収めた「桶狭間の戦い」は典型的です。

また同時に傭兵制のデメリットも上手く解消しました。以前の記事「フランス革命による徴兵制と近代教育の起源」でも述べたように、傭兵制のデメリットは兵士たちのモチベーションが低いことです。兵士たちは給料で雇われている身ですので、自分の参加している戦争で負けそうになったら、一目散で逃げてしまいます。信長はこのモチベーションという課題をどうやって解決しようとしたのでしょうか。もう一度、信長の政策を振り返りたいと思います。

1.信長の柔軟な人材登用

「楽市・楽座」で重要なポイントは自由な経済活動を認めただけでなく、「農業をやりたければ、やればいいし、ほかの仕事をしたければ、それでいい」というように「職業選択の自由」を庶民に与えたことです。そうすれば、戦争で手柄を立てたいやる気のあるものが兵士として志願してきます。そして信長の支配する領地を会社に例えると、会社の実績が伸びる方法は、優秀な実力のある人材をどんどん抜擢することです。そのため、信長は身分や出身地に関係なく、実力ある人材を次々と採用していきました。実際に、農民出身の秀吉だけではなく、滝川一益や明智光秀などは尾張出身ではなく他国の出身です(明智は美濃、滝川は甲賀出身)。信長軍とはいわば「多国籍軍」なのです。

他の大名の場合は兵農分離ができていないので、どうしても部下は身内(血縁者)中心になってしまいますが、楽市・楽座による職業選択の自由、そして傭兵制を取り入れた信長の場合は、優秀な人材が次々と全国から集まり、その人材の中から信長は実力本位の人選を行いました。そして手柄を立ててれば(成績を上げれば)、報酬がどんどんもらえる。今のスポーツ選手を想像してもらえれば分かりやすいでしょうか。こうして信長軍のモチベーションは相当なものでした。

2.時代の変化によってメリットはデメリットになる

しかし傭兵制導入による、こうした専門兵士の育成ですが、秀吉の時代に大きな問題を引き起こします。兵士たちの失業問題です。秀吉が天下統一を果たし、もう戦争は必要なくなってしまった。そして秀吉の部下に与える報酬(土地)も日本にはもうない。太閤検地によって日本の土地を測り直したけれど、そんなに多くの土地を確保できなかった。秀吉の朝鮮出兵の目的は、失業した兵士たちに仕事を作ること、そして部下への褒美である新しい土地を獲得することでした。

回の記事「信長の革新性④なぜ豊臣秀吉は朝鮮出兵をしたのか?」では秀吉に関わらず、世界史において国内の混乱期を平定した英雄は必ず「外に向かう(遠征する)」ことに触れました。そして「元寇」は、モンゴル帝国(元)による失業対策であることにも少し触れました。モンゴル帝国が元寇を行った背景には秀吉が置かれた状況と重なる部分がありますので、少し見ていきたいと思います。

3.モンゴル帝国からIS(イスラム国)の正体を考える

今から約800年前の13世紀、日本は鎌倉幕府の時代です。当時のモンゴル帝国は大都(今の北京)を占領し、フビライ・ハンが皇帝に即位しています。フビライは「元」という国号を名乗り、「宋」に代わって新しい中国の統一王朝を建てました。しかし、南には以前の統一王朝である宋の残党である南宋がありました。フビライはこの南宋の討伐にあたりますが、南宋はあっけなく元に降伏しています。戦争らしい戦争はしていないので、南宋の官僚や軍人はそのまま生き残ったのですが、モンゴルはすでに強い軍隊と優秀な官僚組織を持っていたので、南宋の官僚や軍人には仕事がありませんでした。しかし、こうした人々を失業したまま放置しておくと、武装組織(今のイスラム国のようになって)となって元に攻撃してくるかもしれません。

IS(イスラム国)とは、イラクの旧フセイン政権のときの官僚や軍人を中心に結成されました。アメリカは2003年のイラク戦争の際、イラク政府の要職についていたフセインの政党であるバース党の官僚や軍人を全て追放しました。そのため、不満をもった旧バース党の幹部が集まってできたのがイスラム国なのです。戦争に負けた人々に仕事を与えず、何も考えず放り出したりすると、ろくなことがありません。

そのためフビライはこの失業問題を解決するため、短期的事業と長期的事業に分けました。短期的事業として、あまり頭の良くない軍人たちには仕事として戦争をさせました。長期的事業として、頭の良い官僚には、資料の編纂事業など従事させ「本を作れ」と仕事を与えました。非常に言葉は悪いですが、フビライの意図を訳すとこうなります。「頭の悪い奴は戦争に行って死んで来い。頭のいい奴は末永く使ってやろう」ということです。歴史を学ぶと、なぜ私たちは勉強しなければ(学ばなければ)いけないのか、その答えを歴史は痛烈に教えてくれる気がします。

今から約800年前のフビライは戦争後の失業問題をきちんと把握しており、その対策をしっかりと立てました。しかしアメリカは全く理解できていませんでした。結果として、現在の中東の混乱を作り出しています。私たち人類は進んでいるのか、後退しているのか…分からなくなります。

「人間が歴史から学んだ唯一のことは、人間は歴史から何ひとつ学ばないということだ」

元イギリス首相で、第二次世界大戦を指揮したウィストン・チャーチルの言葉が深く突き刺さります。

4.モンゴル帝国にとって、元寇は勝っても負けてもどっちでもよかった

短期的事業としての仕事を与えられた軍人はアジア遠征に送り出されました。日本、インドネシアやビルマなど、ありとあらゆるところで戦争をしています。しかし、これは本質的には失業対策事業(余剰人員の整理)なので、勝っても負けてもどっちでもいい。フビライからすると、国内に残しておいたら良からぬことを考えて悪さをするかもしれないから、外に出して戦争で死んでくれた方がよっぽどいい、という感覚でした。

そのため元寇で攻めてきたモンゴル軍は本物ではありませんでした。日本に攻め込んできた兵士は旧南宋の軍人や朝鮮人が中心でした。モンゴル軍が乗ってきた船は朝鮮に急造で作らせたもので粗末なものでした。だから、日本の嵐に耐えることができなかったのです。しかし日本人は「神風」によって当時の世界最強の軍に勝利した、と大袈裟に捉えたのです。もし正規のモンゴル軍が日本に攻めてきたことを想像すると末恐ろしくなります。日本人の井の中の蛙ぶりは昔から変わっていないのかもしれません。

モンゴル帝国の元寇について述べてきましたが、秀吉もモンゴルと同じような理由から朝鮮出兵をしました。しかし朝鮮出兵は失敗しました。その理由としては、いくら戦争をしたいと言って兵士になったとしても、ずっと長期間戦争をしてれば、兵士たちのモチベーションは低くなっていきます。つまり兵士の失業対策として戦争を行うことは短期的事業として有効的ですが、長期的事業として向いていないからです。秀吉はこの長期的な視野を見落としてしまい、戦争を長期化させてしまい、戦争を泥沼化させてしまいました。

5.家康の失業対策とは?

では秀吉を引き継いだ徳川家康はどのようにして、この問題を片付けたのでしょうか。見ていきましょう。

彼が行ったのは「職種の転換(転職)」でした。

これは江戸時代の武士は仕事として何をしていたのかを考えると分かります。彼らは基本的に戦争はしていません。では何をやっていたのか。彼らの仕事は、帳簿を付けたり物産を管理したり、あるいはお城の宿直をしたりと、今の言葉でいうと事務職をしているのです。つまり家康は武士の仕事内容を変化させることで、失業問題を解決しようとしたのです。武士という職業は廃止しなかったけれど、これからは戦争ではなく事務職をするようにと、職種の転換を図ったのです。

人気テレビゲームの「ドラゴンクエスト」には転職システムというのがあります。ゲームをプレイする人は操作するキャラクターに職業を自由に選択させることができるのですが、家康が推奨した職種の転換もこのシステムに近いと思います。ただし、戦争に結びつくような戦士や魔法使いなどではなく、会計士や事務職に限られました。今までの武士は、戦士や武道家のように身体を使って仕事をしてきましたが、これからは戦争がないのだから、頭脳を使った仕事を武士たちにさせたのです。装備品(商売道具)も刀から算盤に変わりました。

しかし、それだけで全ての失業問題が片付いたわけではありません。職種の転換といっても、すぐにできるわけではありません。家康にとって大坂冬の陣、夏の陣というのは、もちろん豊臣家を滅ぼすための戦いであったことは確かですが、もうひとつ、失業者を減らす(余剰人員の整理)という目的もあったと思います。

家康はフビライのように、短期的事業と長期的事業をうまく使い分けたのです。

7.なぜ新選組は結成された?

しかしその結果として、幕末時代に黒船が来航したときに問題が生じます。武士が兵士として役に立たなくなってしまったのです。武士たちは、すっかり事務官僚化してしまい剣術ができないためです。そのため幕府が行ったのは、剣術の優秀な者をオーディションする、ということをしています。どんなに身分が低くても剣術が上手ければ武士になれるという口実によって、全国オーディションをしたのです。まさに歌が上手ならメジャーデビューできるというアイドルのオーディションそのものですが、それで結成されたのがあの「新選組」なのです。新選組のメンバーのほとんどは、農民や商人の子として生まれ、もともと武士ではありませんでした。幕府と対抗した長州の高杉晋作が奇兵隊を組織したのも同じ理由です。

幕末にこのような問題が生じた理由は、そもそも江戸時代のおいて家康がおこなった職種の転換が原因なのです。信長が専門兵士を育成し、それを受け継いだ秀吉が天下統一を果たすと、今度は専門兵士が余ってしまったので朝鮮出兵を行いました。秀吉の失敗をみた家康が武士に転職(職種の転換)をさせて戦争をできないようしましたが、幕末になると今度は戦える武士(兵士)がいなくなってしまいました。歴史とは皮肉なものです。

次回は、信長と秀吉を引き継ぎ天下統一を果たした徳川家康は、なぜ265年間という長期政権(江戸幕府)を築くことができたのか、その背景について考えたいと思います。